大阪電燈
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大阪電灯株式会社大阪電灯が建設した春日出第二発電所
種類株式会社
略称大電
本社所在地 大阪市北区中之島5丁目60番屋敷
設立1888年(明治21年)2月5日
解散1923年(大正12年)10月1日
業種電気
事業内容電気供給事業
代表者初代社長 土居通夫 (1888 - 1917)
4代社長 宮崎敬介 (1919 - 1923)
公称資本金4320万円
払込資本金同上
株式数86万4000株(額面50円払込済)
総資産6446万0千円
収入943万4千円
支出596万3千円
純利益347万0千円
配当率年率12.0%
決算期5月末・11月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1922年11月期決算による[1]
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大阪電灯株式会社(.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:大阪電燈株式會社󠄁、おおさかでんとうかぶしきかいしゃ[注釈 1])は、明治から大正にかけて存在した日本の電力会社(電灯会社)である。関西電力管内にかつて存在した事業者の一つ。

1889年(明治22年)に国内3番目の電力会社として開業。大阪市を本拠に供給区域を広げ、関西地方を代表する電力会社に発展したが、1923年(大正12年)に事業を大阪市および大同電力に譲渡し解散した。
概要

大阪電灯は、日本において電気事業が勃興してから間もない時期に設立された、関西地方では2番目に古い電力会社(電灯会社)である。その設立は1888年(明治21年)2月であり、日本初の電力会社東京電灯の設立(1883年)の5年後で、名古屋電灯神戸電灯の設立に続くものである[2][3]。供給事業の開始は翌1889年(明治22年)5月からで、東京電灯・神戸電灯に次いで日本で3番目、関西地方に限定すると2番目の事例となった[4]。大阪電灯の直後に設立された京都電灯と大阪電灯・神戸電灯の3社は明治期の関西における三大電灯会社で、その後相次いで設立された電力会社よりも著しく大規模であった[3]

設立当初の資本金は40万円、開業時点での電灯供給は150灯、という規模でスタートした大阪電灯は、明治から大正にかけて電気事業の市場が拡大する中で発展し、開業から35年目の1923年(大正12年)には資本金4320万円、電灯供給約188万灯、電力供給約3万馬力という規模まで拡大した。この間電気の供給区域も拡張され、初め配電は大阪市内のみに限られていたがやがて大阪市外にも広がり、堺市なども含む大阪府中部一帯に及んだ。また1902年(明治35年)に九州門司市(現・北九州市)にて供給事業を開始したのを皮切りに、一時期大阪府外でも事業を展開した。供給事業以外にも電気機器の製造・販売事業を手がけており、設立初期から販売を行い後に自社工場を設置して機器の製造にも乗り出していたが、これは1921年(大正10年)に廃業している。

第一次世界大戦後から大正末期にかけて日本の電力業界では5つの会社が巨大化し、「五大電力」と呼ばれるに至った[5]関東からは東京電灯、中京と九州北部からは名古屋電灯の後身である東邦電力が加わり、関西からは宇治川電気と卸売り主体の大同電力日本電力という新興の3社が名を列ねた[5]。一方で大阪電灯を含む関西の既存会社はこれら5社に比して発展せず、関西地方における電気事業の中心は大正になってから開業した新興の3社へと移っていった[6]。既存会社の発展が停滞した要因の一つが公営電気事業の発達で、大阪市でも1906年(明治39年)に市と大阪電灯の間で報償契約が締結されて事業が規制された上、後に市営の電気供給事業が開始された[6]

大阪市と大阪電灯の間で交わされた報償契約には、1922年(大正11年)以降に市が事業の買収を希望する場合には大阪電灯はそれに応ずる、という条項が盛り込まれていた。これに基づき1922年より大阪市は大阪電灯からの事業買収に向けて動き始める。長期にわたる協議の結果翌1923年に妥結に至り、同年10月、大阪電灯の事業・財産のうち大阪市内および東成郡西成郡のものが大阪市に買収され、市営の電気供給事業に編入された。それと同時に残余の事業・財産は大同電力に買収され、大阪市および大同電力に事業・財産を譲渡した大阪電灯は解散し消滅した。
沿革
会社設立の経緯大阪商工会議所にある土居通夫

1887年(明治20年)頃、大阪市の有力者の間である事案が話し合われた。大阪市のような商業が盛んで人口の多い土地においては石油を用いて灯火をともすのは不衛生かつ火災の危険が伴う、ということで照明を近代化しようというものである[7]。新たな照明としてガス灯が着目され、まずはガス事業が企画された[7]。日本においてガス事業は1872年(明治5年)まず横浜市で開業し、1874年(明治7年)からは東京市でも経営されていた[8]

このガス事業の企画に対し、ガス灯よりも電灯を供給するのが有利であるという意見も出現する[7]。電灯供給事業は1887年11月、東京市にて東京電灯の手で日本初の一般供給用発電所が竣工し、供給が始まったばかりであったが[2]、先発のガス事業を圧倒して優位に立つ状勢であった[7]。電灯はこの時期大阪にも登場しており、自家発電ではあったが1886年(明治19年)に三軒家の大阪紡績工場に採用され[9]、また市内の劇場「中座」にも設置されていた[10]。ガス派・電灯派に分かれて紛糾したものの、最終的に土居通夫の斡旋によって電灯事業の経営にて一同意見の一致をみた[7]

1887年11月28日、大阪府知事あてに事業設立願書が提出された[7]。その発起人は大阪の有力実業家20名で[11]鴻池財閥鴻池善右衛門住友財閥住友吉左衛門のほか、山口吉郎兵衛阿部彦太郎下郷伝平松本重太郎田中市兵衛藤田伝三郎・土居通夫らが名を連ねた[7]。同年12月1日に認可を受けて準備を進め、翌1888年(明治21年)2月5日、発起人により創立総会が開催されここに大阪電灯が発足するに至った[7]。社名は発足当初「有限責任大阪電灯会社」と称したが、1893年(明治26年)7月に「大阪電灯株式会社」に改称している[11]資本金は40万円である[11]

会社の設立とともに20名の発起人の中から土居通夫・豊田文三郎・玉手弘通・野田吉兵衛・徳田亀太郎の5名が取締役に選出され、そのうち土居が初代社長に就任した[11]。土居は宇和島藩出身の士族で維新後は明治政府に出仕していたが、1884年(明治17年)に官を辞して実業界に入り鴻池家の顧問となり、次いで大阪電灯の設立に参加、後年には大阪商業会議所会頭にも推された[12]


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