大阪電気軌道
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大阪市高速電気軌道」とは異なります。
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この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年1月)

大阪電気軌道
?saka Electric Tram Co.
種類株式会社
略称大軌、大阪電軌
本社所在地 日本
大阪府布施市大字下小阪639[1][2]
設立1910年(明治43年)9月16日[1]
業種鉄軌道業[1]
事業内容旅客鉄道事業、自動車事業、電気事業、不動産業、百貨店業 他[1]
代表者社長 種田虎雄[1][2]
資本金60,000,000円[1]
(払込額:49,290,000円)[1][2]
発行済株式総数1,200,000株(内第四新株285,600)[2]
主要株主

泉吉次郎 52,820株[2]

大軌参急弥栄会 46,865株[2]

摂津汽船 22,650株[2]

南都銀行 14,913株[2]

天野合名 14,312株[2]

鴻池信託 13,589株[2]

大同生命保険 12,591株[2]

日本生命保険 10,932株[2]

帝国生命保険 10,000株[2]

特記事項:1940年(昭和15年)現在[2][1]
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大阪電気軌道(おおさかでんききどう、英文社名:?saka Electric Tram Co.[3])は、近畿日本鉄道(近鉄)の直系の前身にあたる、大正から昭和戦前期の関西系私鉄会社。略称は「大軌」(だいき)。

本稿では大軌本体のほか、その子会社である参宮急行電鉄(さんぐうきゅうこうでんてつ、略称:「参急」)、関西急行電鉄(かんさいきゅうこうでんてつ、略称:「関急電」・「関急」)、およびそれらの会社が合併して成立し、現在の近鉄路線網の原形を作った関西急行鉄道(かんさいきゅうこうてつどう、略称:「関急」)についても本項で併せて記述する。
歴史

系列の参宮急行電鉄関西急行電鉄、後身の関西急行鉄道時代も含む。
創業期

大阪 - 奈良間の短絡を目的に、1910年(明治43年)9月16日に設立された奈良軌道がその起源である。当初は奈良電気鉄道(後述の奈良電気鉄道とは無関係)の社名を予定していたが、鉄道省から改名要請が出されたために変更された。初代社長は広岡恵三であった。

同年10月15日、社名を大阪電気軌道(大軌)に改称した。

この頃は1905年(明治38年)開業の阪神電気鉄道に始まった、路面電車を発展させた郊外電車であるインターアーバン(都市間連絡電車)の建設が日本各地で流行している時期でもあり、大軌もその流れの中で設立された。なお、現在の関西における大手私鉄直系祖先会社の中では、最も遅い発祥でもあった。

元々大阪 - 奈良間の私鉄建設には、単線かつ狭軌の鉄道として3つの出願がなされていた。いずれもバックに政治家資本家がいて、裁定もしかねる状態であった。そのため3つの出願を1つに統合する事が提案され、その結果として奈良軌道の設立に至ったのである。
生駒トンネルルート

大阪府・奈良県境の生駒山地を直線的に越えるため、当初は鋼索鉄道(ケーブルカー)や索道(ロープウェイ)の利用さえも検討されたが、これでは高速都市間電車としての機能が失われることから、箕面有馬電気軌道(現:阪急阪神ホールディングス)の設立にもかかわった同社の筆頭取締役岩下清周(後に大軌社長)の発案などにより、結局生駒山複線規格の生駒トンネル(3,388m、当時日本第2位の長さ)で開削し、急勾配区間を大出力モーター搭載の300馬力電車で克服する、という大規模かつ先進的な策で攻略することにした。また計画も、全線が複線電化の標準軌(この当時の関西私鉄は、南海鉄道を除いて全てこの規格であった)路線に変更された。

1914年(大正3年)4月、大阪の上本町駅 - 奈良駅間30.8km(現・近鉄奈良線)を開業。この時点では奈良駅は仮駅で、同年7月に現在の近鉄奈良駅付近へ移転している。なお軌道法に基づいて路線の特許を取得したため、全区開業時の大軌線による大阪 - 奈良間の所要時間は55分で、官営鉄道関西本線列車に比べて15分も短縮した。
経営難

しかし、生駒トンネル掘削の難工事による多額の出費が原因で経営難となり、沿線の生駒聖天から賽銭を借りて当座の経費を賄うほどに窮迫した。主要利用客である生駒山参詣者の人出がお天気次第なので運賃収入もお天気次第、という意味で「『大阪電気軌道』でなく“大阪天気軌道”」、空気のように頼りない経営状態から「『大軌』でなく“大気”」、と揶揄されたことさえあった。

更に岩下など、設立に関わった取締役も次々に手を引くようにして辞めてしまい、大軌に残ったのは金森又一郎(後に社長、「大軌の実質創業者」とも呼ばれる)など数名のみとなり、毎日会社に債権者が押しかけるという事態にも陥った。このため実業家の片岡直輝が、大軌の依頼で生駒トンネルを建設したものの、代金未払いの状態が続いたことが原因で、倒産寸前に陥っていた大林組とセットで大軌の再建に乗り出した。

その後、経費削減などの経営努力と利用客の増加により辛うじて大軌は再建し、1916年(大正5年)3月には一応の債務整理を完了した。


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