大阪鉄道_(2代目)
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大阪鉄道
種類株式会社
本社所在地 日本
大阪府南河内郡富田林町大字毛人谷522[1]
設立1899年(明治32年)1月23日[2]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、不動産 他[1]
代表者社長 佐竹三吾[2]
資本金17,940,000円(払込額)[2]
発行済株式総数420,000株(内新株306,000)[2]
主要株主

大軌証券 60,000株[2]

岸本五兵衛 20,000株[2]

阿部合資 7,451株[2]

阿部一二郎 7,040株[2]

特記事項:上記データは1942年(昭和17年)現在[2]
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(2代目)大阪鉄道(おおさかてつどう)[3]は、現在の近畿日本鉄道(近鉄)道明寺線南大阪線長野線をかつて運営していた会社である。通称は「大鉄(だいてつ)」。
概要

1898年(明治31年)3月24日に柏原駅 - 道明寺駅 - 古市駅間が開業したが、この区間3駅は現存する近鉄の路線の内で最古の区間である。また1923年(大正12年)には、日本の鉄道電化において初めて直流1500V電源を用いた。1500Vの高圧直流電化は、それ以前に主流であった600V低圧直流電化に比して効率面で優れ、大鉄の電化以降、日本における鉄道電化の主流方式となった。

最初の路線を開業した1898年(明治31年)3月当時は河陽鉄道(かようてつどう)と称し、その翌年河南鉄道(かなんてつどう)に一度再編された。この時は非電化の蒸気鉄道であり、本項の大阪鉄道 (2代目)とは別の会社である大阪鉄道 (初代)が運営していた路線(現在の関西本線の一部など)の支線的存在であった。なお、大阪鉄道 (初代)は1900年(明治33年)6月に関西鉄道に譲渡されている。

1919年(大正8年)3月に大阪市への乗り入れを目指して社名を大阪鉄道へ改称し、1922年(大正11年)に道明寺駅より分岐し布忍駅までの新線を開業。1923年(大正12年)4月に東成郡天王寺村[4]に造られた大阪天王寺駅[5]まで電化新線(大阪天王寺 - 道明寺)での乗り入れを実現した。

一方、1926年(大正15年)に合併した南大阪電気鉄道の免許(堺 - 古市 - 久米寺- 桜井)を活用し、1929年(昭和4年)3月には古市駅から分岐し久米寺駅(現在の橿原神宮前駅)までの路線を建設して吉野鉄道(今の近鉄吉野線)との乗り入れを開始した。南河内のローカル私鉄に過ぎなかった河南鉄道は、大阪鉄道へ改称後僅か10年でほぼ現在の路線網を作り上げたことになる。翌1930年には傍系の南和電気鉄道が尺土 - 御所間を開通させた。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}勢いに乗る大阪鉄道は更に久米寺駅から桜井駅を経て宇治山田市(現在の伊勢市)に至る路線構想も有していた。[要出典]しかしながら伊勢への延伸計画は重複する大阪電気軌道(大軌)にとっては脅威であり、かつ邪魔なものでしかなく、資本力に勝る大軌は本気で潰しにかかることになる。[独自研究?]

まずは吉野鉄道に対し同社に並行する新線計画を持ち出し、敵わないと判断した吉野鉄道は大軌の軍門に降ることになる。大鉄も路線延長に投資を行ったものの昭和恐慌と重なり乗客が思ったほどは伸びず経営は苦しくなってゆく。苦境に陥った大鉄に対し大軌は株式を買い集め始め圧力をかけるが、大鉄に救済の手をさしのべる会社はなく[6]、ついには大軌が大鉄の過半の株式を持つに至り、河南鉄道以来の旧経営陣は追放され大鉄は大軌の系列下に組み込まれることになる。

伊勢への延伸は、この大軌とその子会社の参宮急行電鉄(参急)によって1930年(昭和5年)に果たされている(今の近鉄大阪線山田線)。

また、大鉄の経営は大軌傘下で再編が推し進められ、1935年(昭和10年)頃に沿線の宅地化(藤井寺や古市など)が進んで乗客が増加したこともあり、ようやく立ち直った。

1943年(昭和18年)2月に、大鉄は大軌の後身である関西急行鉄道(関急、翌年近畿日本鉄道(近鉄)へ改組)へ合併された。
沿革上ノ太子駅での三重衝突事故(1929年4月14日)

1898年(明治31年)

3月 - 河陽鉄道、初の路線である現在の関西本線柏原駅から分岐し、古市駅に至る区間を開通させる(現在の近鉄道明寺線全線と、南大阪線の一部区間に相当)。

4月 - 古市駅 - 富田林駅間を開業(現在の長野線の一部区間に相当)。


1899年(明治32年)5月 - 河陽鉄道、営業不振のため業務・債権債務を新設会社河南鉄道に譲渡して解散。

1902年(明治35年)

3月 - 富田林駅 - 滝谷不動駅間を開業。

12月 - 滝谷不動駅 - 長野駅(現・河内長野駅)間を開業、現在の長野線が全通した。


1919年(大正8年)3月 - 河南鉄道は、国有鉄道の支線的な性格から脱却すべく大阪市乗り入れを計画し、社名を大阪鉄道(大鉄)に改める。

1923年(大正12年)4月 - 道明寺駅 - 大阪天王寺駅間を全通させ、実質的に大阪市内乗り入れを達成[7]、大都市に直結する郊外電気鉄道路線に脱皮した。開業区間は全線複線で、日本初となる直流1500V方式で電化されていた。

1924年(大正13年)6月 - 大阪天王寺駅を大阪阿部野橋駅(あべの橋駅)に改名。

1926年(大正15年)11月 - 南大阪電気鉄道を吸収合併。

1928年(昭和3年) - 日本の電車で当時最大の20m級(正確には19.5m)車体を持つ電車デニ500形を投入。1930年までに派生形も含めて60両を製作、主力車となる。以後日本の国鉄大手私鉄には20m級電車が続々と出現するが、大鉄はその先駆である。

1929年(昭和4年)3月 - 古市駅 - 久米寺駅(現・橿原神宮前駅間)を開通、現在の南大阪線に該当する区間が全通し、既に開通していた吉野鉄道(現在の近鉄吉野線に相当)とあわせて大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間の直通運転を開始する。

1929年(昭和4年)4月 - 上ノ太子駅で衝突事故が発生。 大鉄電車三重衝突事故を参照。

1929年(昭和4年)8月 - 吉野鉄道が、現在の近鉄の直系母体である大阪電気軌道(大軌)に吸収合併され、同社の吉野線となる。大鉄は、大軌の路線とは大阪 - 久米寺間で並行しており競争関係にあったが、大軌本来の路線は線路幅(軌間)が1435mm(標準軌)であったのに対し、大鉄と大軌に吸収された吉野鉄道は1067mm(狭軌)であったため、大鉄線 - 大軌吉野線の直通運転は利用客の便宜上継続された。


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