大阪新歌舞伎座
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上本町YUFURA > 新歌舞伎座 (大阪)

(2代目)新歌舞伎座
Shin Kabukiza

2013年1月
情報
正式名称新歌舞伎座
完成2010年
開館2010年9月3日
開館公演松竹花形歌舞伎二十一世紀歌舞伎組
収容人員1,453人
用途演劇
運営株式会社新歌舞伎座
所在地543-0001
大阪府大阪市天王寺区上本町6丁目5番13号 上本町YUFURA6階
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度39分53.2秒 東経135度31分10.7秒 / 北緯34.664778度 東経135.519639度 / 34.664778; 135.519639 ((2代目)新歌舞伎座
Shin Kabukiza)座標: 北緯34度39分53.2秒 東経135度31分10.7秒 / 北緯34.664778度 東経135.519639度 / 34.664778; 135.519639 ((2代目)新歌舞伎座
Shin Kabukiza)
アクセス近鉄大阪上本町駅直結
外部リンクwww.shinkabukiza.co.jp
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新歌舞伎座(しんかぶきざ)は、大阪府大阪市天王寺区上本町6丁目の上本町YUFURAにある劇場。2010年(平成22年)9月に開場した。

本項では大阪市南区(現:中央区の南側)難波1958年昭和33年)10月開場、2009年平成21年)6月閉館した(初代)新歌舞伎座についても記述する。

なお1929年(昭和4年)9月から1933年(昭和8年)12月まで東京に存在した新歌舞伎座は別劇場。東京の新歌舞伎座は1934年(昭和9年)1月1日より新宿第一劇場に改称した[1]
歴史・概要
上方歌舞伎の崩壊から(初代)新歌舞伎座の誕生へ

初代中村鴈治郎の独裁体制と呼ばれるような状況が長く続いたことで、他のスターが育たず、企画力も低下することに繋がり、その没後は上方歌舞伎は不振が慢性化し、松竹の白井松次郎の死で一段と悪化するに至った[2]。そして、内紛から1954年(昭和29年)9月に三代目坂東鶴之助が松竹脱退を表明し、若手有望株も将来性を悲観して映画に軸足を移し、同月24日に三代目阪東壽三カに没するなど、上方歌舞伎界の崩壊が進むことになった[2]。さらに、ストライキの影響で1955年(昭和30年)は当劇場での上方歌舞伎の正月興行が出来なくなり、同年5月には二代目中村鴈治郎が歌舞伎の無期休演を発表し、6月には四代目中村富十郎が不満を表明して「矢車座」を結成して自主公演を行うなど内紛が一層深刻化し、上方歌舞伎界は崩壊するに至った[3]

1954年(昭和29年)に松竹社長の大谷竹次郎から「千土地興行」の経営再建を委ねられた松尾国三がわずか2年で負債を一掃し[4]1956年(昭和31年)9月に「千土地興行」の社長に就任した[5]。そして、更なる業績改善のため、稼働率の向上と設備の老朽化への対応として縮小移転することになり、1957年(昭和32年)11月12日に「なんば大映」と大映関西支社跡地で893人(約34.4%)少ない1,703人収容の(初代)新歌舞伎座の建設に着手すると共に、同年11月28日に増資を行ってその建設資金を調達したのが始まりである[6]

また、極度の不振に陥っていた劇場経営の再建策として従来の松竹によるひも付きから独自の採算重視の興行への切り替えを行った[7]

(2代目)大阪歌舞伎座1958年(昭和33年)4月に新国劇によるサヨナラ公演を最後に閉場した[8]、新たなテナントからの賃借保証金を活用して同年5月1日から商業施設への改修工事が開始され[7]、同年12月1日千日デパートが開業[9]

(初代)新歌舞伎座は、同年10月30日に開場式を行って[8]翌日31日からこけら落とし公演を行った[10]。だが、そのこけら落とし公演も弱体化した上方歌舞伎のみでは成り立たないとして、尾上菊五郎劇団[注 1]三代目市川壽海七代目嵐吉三郎のみが出演する形となった[14]。なお、このこけら落とし公演の初日に「天地開闢」で舞台装置が倒れ、2日目には市川海老蔵が出演をキャンセルして帰京しようとして1つ目の演目の「天地開闢」が九円となるなど波乱の幕開けとなった[15]

この(初代)新歌舞伎座は、敷地面積2,273.7m2に建設された鉄骨鉄筋コンクリート造・銅板葺・地下2階・地上5階建てで、1階がホワイエ・食堂・バー・茶室、2階から4階が劇場部分で、5階の事務所フロアには開業時には「千土地興行」の本社事務所が入居し、地下1階は食堂・売店で、地下2階に機械室などを配置していた[16]。「観光劇場」として桃山造りの外装や[8]桃山風の極彩色の障壁画の飾られた内装となっていたが[17]。なお、歌舞伎向けの劇場ながら回り舞台は設置されず、移動舞台方式が採用されていた[18]。また、敷舞台は、開業当初は舞台端近くの床面奈落を切って落とし込む方式が採用されていたが、舞台奥に立て掛けて収納する従来の劇場で採用されている方式に変更された[19]。また、従来の歌舞伎用劇場と異なり、客席での飲食も禁止とされた[14]

1966年(昭和41年)6月1日に「株式会社新歌舞伎座」を設立し、「株式会社日本ドリーム観光」から子会社として分離独立した[20]
歌舞伎を上演しない新歌舞伎座

(初代)新歌舞伎座は初期からタレント芝居などの団体客などを対象とした面白く楽しい娯楽演劇の劇場として公演した[21]

その為、観光劇場という方針によって伝統的な歌舞伎の衰退を恐れた演劇愛好者らの支援もあり、中村鴈治郎や片岡仁左衛門らが「上方歌舞伎を護る七人の会」を結成し、同年8月28日から30日まで大阪毎日ホールで第1回公演を開催する動きも見られた[22]

三波春夫1958年(昭和33年)5月に「大阪劇場」で初のワンマンショーを行っており[23]、その際にテイチクから芝居の要素を取り入れる様に言われて寸劇を取り入れていた[24]。翌年1959年(昭和34年)の新譜「大利根無情」を出し、その関係で同年のワンマンショーでは、殺陣師の指導を受けて本格的に芝居を行った[25]。同年8月に行われた[26]大阪劇場でのショーを見た松尾國三を当劇場本社に訪ねた際にテイチク榊原宣伝部長が三波春夫による日本的ミュージカルとしての芝居公演の提案を行って松尾が承諾し[27]1960年(昭和35年)3月1日から三波春夫によるワンマンショー[28]「桃中軒雲右衛門とその妻」と「歌う月形半平太」を上演し[26]、同月28日の千秋楽には満員と盛況のうちに終了した[29]


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