大阪府立阿倍野高等学校
2007年7月撮影
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度38分8.7秒 東経135度30分53.2秒 / 北緯34.635750度 東経135.514778度 / 34.635750; 135.514778
大阪府立阿倍野高等学校(おおさかふりつあべのこうとうがっこう、英称:Osaka Prefectural Abeno High School)は、大阪府大阪市阿倍野区にある公立高等学校。 1922年に旧制高等女学校として創立した。全日制普通科を設置している。学校は大阪市阿倍野区の中央部付近にある。 有料ではあるが、大手進学塾と提携し、放課後に英数国の「阿倍高塾」を週数回開講している。 現行の校歌は詩人の安西冬衛が作詞した。新制高等学校制度の発足直後、旧制高等女学校時代の校歌に代わる新時代の校歌を制定しようと、生徒会の意見も採り入れながら職員会議で議論した。職員会議では当時国語科教諭として当校に在籍していた詩人・伊東静雄に依頼しようという方向でまとまった。しかし伊東は病気療養中だったために「病人が新たな時代の校歌を作るわけにはいかない」として固辞し、知人の安西冬衛を紹介した。その縁で安西が作詞することになった。 2013年度から朝の10分間モジュール学習を実施している[1][2]。英語を中心に書き取りドリル学習を行い、5日間実施で1単位として認定する[1][2]。 1922年3月に大阪府公報第925号によって設立が認可され、同年4月に大阪府立第十一高等女学校として開校した[3][4]。当初は西区泉尾町(現在の大正区泉尾3丁目)の大阪府立泉尾高等女学校を仮校舎とした[3]。 1922年中に校地の買収と建設工事がおこなわれ、1923年4月に東成郡天王寺村大字天王寺字東中道(現在の阿倍野区阪南町1丁目。現在地)に移転した。現在地への移転と同時に大阪府立阿部野高等女学校へと改称している[3]。 昭和時代初期には太平洋戦争の戦局悪化により、1944年から1945年にかけて大阪府阿部野臨時国民学校教員養成所を併設し、召集などで不足した国民学校教員の養成もおこなっていた。また1944年以降、3年生以上の生徒は勤労動員の対象となり、近隣の藤永田造船所や早川電機などへの動員がおこなわれた。 学制改革により1947年に新制中学校制度が発足したことに伴い、阿倍野高等女学校では旧制高等女学校としての生徒募集を停止した上で、新制の併設中学校を設置し、2・3年生を併設中学校へ移行させた。 翌1948年には新制高等学校制度の発足により、大阪府立阿部野高等学校となった[3]。この際、大阪府立住吉高等学校(旧制大阪府立住吉中学校)と高校1年・併設中学校3年の生徒および教職員を交流して男女共学になっている。生徒交流の際、住吉・阿部野の両校とも、それぞれ元の学校に残りたいと希望する生徒が多数を占めたため、最終的には生徒の住所で両校に振り分ける形になった。 新制高等学校として出発した直後の1948年5月には、義務教育優先としたGHQの方針により、校舎を新制阿倍野第二中学校(1949年大阪市立文の里中学校に改称)および新制阿倍野第四中学校(1949年大阪市立松虫中学校に改称)の2校に転用することになった。
概要
沿革
旧制阿部野高等女学校
阿倍野高等学校
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