大阪府立茨木高等学校
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大阪府立茨木高等学校

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過去の名称大阪府第四尋常中学校
大阪府第四中学校
大阪府茨木中学校
大阪府立茨木中学校
大阪府立三島野高等学校
国公私立の別公立学校
設置者 大阪府
校訓勤倹力行
設立年月日1895年2月21日
創立記念日4月25日
共学・別学男女共学
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科文理学科
学期2学期制
学校コードD127210000238
高校コード27116A
所在地567-8523
大阪府茨木市新庄町12-1
外部リンク公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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大阪府立茨木高等学校(おおさかふりついばらきこうとうがっこう)は、大阪府茨木市新庄町にある公立高等学校。略称は「茨高」(いばこう)。
概要

1895年旧制中学校として創立した。新制高等学校への改編直後は普通科目と職業科目を選択する総合制課程だったが、1960年代普通科単科の高等学校に改編され、2011年度入学生より文理学科が併設されたのち、2018年度入学生より文理学科1学科の高等学校へと改編されている。
校風

1916年の水泳場竣工、クロール泳法の普及、オリンピック選手など数多くの水泳選手の輩出などの実績によって、「日本近代水泳発祥の地」と称され、記念碑が設置されている。現在でも水泳設備は充実しており、大阪府立高校で唯一、屋内型の50mプールを所有している。

また大正時代から続く「妙見夜行登山」など、質実剛健だった戦前の教育行事の名残を今でも残している。その校風は第二次大戦後、当初GHQから非常に警戒されたというが、現在はリベラルな校風となっており、生徒による体育祭運営などの自治活動が盛んである。1960年代末には学園紛争の影響を受け、突出した学生による学校封鎖が行われたこともあった。

自由・自律を重んじる校風で、校則は存在するが、髪染めや携帯電話の所持などは個人の自律性に任せられている。

校歌『天つ空見よ』は、1912年には歌詞ができており、校名・地名が読み込まれていないという意味では稀有な校歌である。

2001年に大阪府教育委員会より「次代をリードする人材育成研究開発重点校」(エル・ハイスクール)に指定された。前後期の二期制の採用や65分×5限授業の実施をしている。
校舎

今の校舎になる前の旧校舎は昭和初期に建てられたコンクリート造りの歴史ある校舎で、「白塔」と呼ばれるシンボルがあった。また、庭には高槻で出土した石棺が置かれていた[注釈 1]

開校100年を期に、1990年代に新たな校舎が出江寛の設計で建てられ、旧校舎は取り壊された。体育館は屋根に採光のための突起がいくつも出ている特異な形をしているが、これは茨木童子にちなみ「鬼」をモチーフに設計されたからである。

校舎横にはπベンチの通称がある、その形状が円周率のπの文字に似たベンチがある。これは実は当校の校章を象っているのだが、この校章は創立当時の大阪府第四尋常中学校の「四」の文字をデザイン化したものである。その形がπに似ているためかつては「パイ高」と俗称されたこともある。
沿革
創立前史

1886年公布の中学校令では、一府県には一つの中学校という原則があり、大阪府では大阪府尋常中学校(現在の大阪府立北野高等学校)1校のみが設置されていた。

その後中学校令改正で複数中学校の設置が認められるようになったことや、進学希望者の増加を踏まえ、大阪府では中学校を郡部に増設する方向を固めた。

当初は1校のみを増設する方向だったが、紆余曲折を経て1895年に府内郡部に3中学校の設置が決まった。この時に設置された中学校の一つ・大阪府第四尋常中学校が、現在の大阪府立茨木高等学校にあたる[注釈 2]

大阪府は当初、府北部方面に新設する尋常中学校の予定候補地の場所として、吹田村を検討していた。しかし島下郡[注釈 3]の郡役所所在地である茨木村への設置を推す意見があがり、茨木村に設置することにした。
学校創立

1895年2月21日に大阪府第四尋常中学校の設立が認可され、同年4月25日に島下郡三島村大字総持寺の総持寺に仮校舎を設置して開校した。1897年7月に三島郡茨木村大字茨木の現在地に校舎が完成し、同年9月より現在地での授業を開始している。

1899年には中学校令改正により、大阪府第四中学校へ改称した。

大阪府では1900年、旧制中学校・高等女学校について、従来の設置順の番号で付けられていた校名を廃止し、地名から校名を付けることを原則にする新しい方針をだし、1901年よりすべての旧制中学校・高等女学校(1901年度開校予定の学校を含む)を1901年度より一斉に校名変更する方針を打ち出した。そのことに伴い、1901年4月には大阪府茨木中学校へ改称した。一方で改称直後の1901年4月8日付けの文部省令第11条[注釈 4]を受けた大阪府の方針で、直後の1901年6月には大阪府立茨木中学校へと再改称している。
水泳場造成

1913年6月には、校地隅のため池を改造して「水泳池」が設置された。水泳池は生徒らの作業で設置された。しかし水泳池は学校外部から自由に出入り可能な状態だったため、近隣住民の洗い物などにも利用され、衛生面の心配もあった。

その後大正天皇即位記念事業として、本格的な水泳場の建設がおこなわれた。水泳場は生徒の作業で造成され、1916年3月に完成した[1]
制服改革

1895年の創立当初の制服は和装だった。しかし大正時代に入ると全国的にも制服の洋装化が進み、和装の制服を採用している中学校は日本全国で3校のみに減少し、そのうちの1校となっていた。「時代遅れ」の制服に対して1920年には生徒らが制服改革を求めてストライキを起こし、それに対して学校側はストライキ主導者の退学処分で応じ、それらの騒動が新聞報道されるなどした。1921年に校長が交代し新校長が制服改訂を表明(1922年度より実施)することで、制服問題は決着している。
勤労動員

第二次世界大戦中の国民総動員体制により、1937年以降は勤労奉仕が始まり、生徒らは軍需工場に動員された。1944年8月以降は通年の動員体制となり授業がおこなわれなくなった。3-5年生は軍需工場に動員され、1-2年は開墾作業に従事した。
学制改革と廃校問題

1948年の学制改革により新制高等学校となり、大阪府立茨木高等学校と称した。近隣の大阪府立春日丘高等学校(旧制大阪府立茨木高等女学校)と男女生徒を交流して男女共学を実施した。茨木高校(茨木中学校)から春日丘高校へは男子生徒355人が移り、また春日丘高校(茨木高女)から茨木高校へは女子生徒363人が移った。

しかし直後の1948年5月26日、GHQは茨木高校校舎を新制中学校校舎へ転用する方針を決めた。GHQは茨木高校の廃校方針を決め、GHQの責任者は廃校採決の承認もおこなっていた。

これに伴い茨木高校は校舎を明け渡し、春日丘高校内に同居することになった。また学制改革に伴い過渡的に設置されていた併設中学校の生徒は学校組合立養精中学校(現在の茨木市立養精中学校)へ転入させた。

空いた校舎は吹田市立第二中学校と富田町立中学校(現在の高槻市立第四中学校)が使用する計画になっていたが、両校とも独自に校舎を建てることにして校舎を使用しなかった。

GHQの措置に対して茨木高校関係者は、校舎復帰・廃校反対を求める運動を起こした。進駐軍は高校関係者や地元住民の意向を無視できないと判断して方針転換し、「茨木高校の校舎転用方針は撤回し、茨木高校・春日丘高校にそれぞれ新制中学校を付設して6年制の『実験学校』とする」案を出した。

これに伴い1948年8月に現在地に校舎を復帰した。また書類上は廃校扱いになっていたので「茨木」の名称は使えないとして、1948年8月に「大阪府立三島野高等学校」の名称で大阪府に届け出、1948年10月の大阪府条例では「三島野」の名称で告示されている。

付設される新制中学校は従来の学校組合立養精中学校を分離する形で充て、茨木高校内には1949年に養精東中学校が併設された。しかし「実験学校」案は「思いつき」(茨木市史)とまでいわれるようなものだったためわずか1年で廃止され、付設の養精東中学校は1950年に廃止されて元の養精中学校へと戻っている。

校名は大阪府立三島野高等学校となっていたが、「茨木」の校名を復活させる運動が1952年以降本格化した。


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