大阪府立勝山高等学校
大阪府立勝山高等学校の正門
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度39分3.5秒 東経135度33分33秒 / 北緯34.650972度 東経135.55917度 / 34.650972; 135.55917
大阪府立勝山高等学校(おおさかふりつ かつやまこうとうがっこう)は、大阪府大阪市生野区にあった公立高等学校。 全日制課程普通科を設置していた。1922年に創立した旧制大阪府立生野高等女学校を前身として、1948年の学制改革により大阪府立勝山高等学校となった。かつては生野区勝山[注釈 1]にあったが、1966年に巽に移転している。 かつては定時制課程を併設していたこともあったが、大阪府の高等学校再編方針により1998年度に閉課程となった。 「嫩葉(わかば)体操」なる独特の体操を生むなど、創立以来体育教育が盛んである。 1980年代初頭までは文系・理系のクラス分けはせず3年生の選択科目で対応していたが、1983年度より3年生について文系・理系のクラス分けを実施した。さらに1989年には英語科と数学科について習熟度別学習を導入し、1991年にはコース制を導入した。コース制は導入当時、大阪府立の普通科高等学校ではきわめて珍しい取り組みだった。さらに2010年代には、1年生での学校独自の取り組みを含めた35人学級の導入、英語や数学での20人前後の少人数指導などの取り組みを実施している。2013年度以降は、グループ学習や「コの字形座席配置」などを取り入れた「協同的な学び」による授業改善を図っている。 同窓会は「嫩葉(わかば)会」と称する。 文部省告示第347号により、大阪府立第十二高等女学校の開校が1922年3月17日に告示された。同年4月1日に大阪府立泉尾高等女学校(現在の大阪府立大正白稜高等学校の場所)を仮校舎として開校した。 当時体育教育は一般的にはあまり重視されていなかったが、初代校長は体力作りや健康を重視し、体操や乾布摩擦を奨励した。正課の体操の授業のほか家庭でも体操を奨励し、「家庭体操」なる独特の体操を作った。家庭体操は1936年以降「嫩葉体操」と呼ばれるようになった。 開校1年後の1923年4月1日付で大阪府立生野高等女学校と改称し、同年12月に東成郡生野村大字国分(現在の大阪市生野区勝山南3丁目)に移転した。学校名については、学校側は当初、近隣の史跡・御勝山(おかちやま)古墳からとった「御勝山高等女学校」を希望した。しかし大阪府は「局地的な地名を校名につけることは好ましくない」として学校側の案を受け入れなかったため、生野村からとった生野高等女学校となった。 戦前は宗教講話も行われ、僧侶で大谷女子専門学校教授の左藤義詮(戦後大阪府知事)やキリスト教牧師、生國魂神社宮司などが講演を行っている。 1934年9月21日の室戸台風では校舎が一部損壊したものの、校内での死傷者はなかった[注釈 2]。近隣のプール女学校(現在のプール学院中学校・高等学校)で校舎が倒壊したことを受けて、救援活動やプール女学校生徒の避難を受け入れるなどしている。 太平洋戦争の戦局悪化により1944年には3年生以上の勤労動員が始まり、泉南郡田尻村(現在の田尻町)の大阪機工吉見の里工場、中河内郡加美村(現在の大阪市平野区加美)の早川電機、大阪市西成区津守の大日本紡績津守工場[注釈 3]などへの動員が実施された。1945年の大阪大空襲では校舎への被害は免れている。 学制改革により、1948年に大阪府立勝山高等学校が発足した。校名については当時の学校所在地周辺の地名からとられている。新制高校の校名には「御勝山」と「勝山」が候補に挙がったが、勝山の名称でまとまった。勝山では同名の学校が岡山県と福井県にあるという指摘もされたが、いずれも遠方で混同などの恐れもなく問題ないとされた。
概要
沿革
高等女学校
学制改革
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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