大阪市立真田山小学校
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大阪市立真田山小学校

.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度40分18秒 東経135度31分41秒 / 北緯34.67174度 東経135.52799度 / 34.67174; 135.52799座標: 北緯34度40分18秒 東経135度31分41秒 / 北緯34.67174度 東経135.52799度 / 34.67174; 135.52799
過去の名称大阪市清堀第三尋常小学校
大阪市真田山尋常小学校
大阪市真田山国民学校
国公私立の別公立学校
設置者大阪市
併合学校大阪市清堀国民学校
設立年月日1874年11月
創立記念日6月1日
共学・別学男女共学
学期3学期制
学校コードB127210000679
所在地543-0013
大阪市天王寺区玉造本町14番41号
北緯34度40分18.6秒 東経135度31分39.3秒 / 北緯34.671833度 東経135.527583度 / 34.671833; 135.527583
外部リンク ⇒公式ウェブサイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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大阪市立真田山小学校(おおさかしりつ さなだやま しょうがっこう、: Osaka Municipal Sanadayama Elementary School[1])は、大阪府大阪市天王寺区にある公立小学校
概要

1874年に清堀小学校(のち清堀尋常小学校、清堀国民学校)として設置され、1922年には同校から分離する形で清堀第三尋常小学校(のち真田山尋常小学校、真田山国民学校)が設置された。太平洋戦争の戦災被害により1946年に清堀国民学校を廃校にして真田山国民学校に統合し、現在に至っている。学校沿革史の上では、1874年の清堀小学校の創立をもって学校創立と位置づけている[2]

近隣に大坂の陣大坂冬の陣真田丸の戦い)の豊臣武将真田幸村の支城・真田丸があった故事から、校章は大阪市章「澪標」と「真田の六文銭(六連銭)」を組み合わせたデザインとなっている。

英語教育道徳教育NIE新聞を教材とした教育)などさまざまな研究活動に取り組んでいる。

特に英語教育は1992年文部省から日本で最初の「国際理解・英語学習」指導の研究開発学校に指定[3]された[4]

2014年9月には、大阪市教育委員会から「英語イノベーション事業」重点校に指定され、フォニックス教育も注力。全ての教員が英語の音声指導を行えるため週3回、朝の15分間アルファベットの正しい発音や歌・絵本を通じ音声に親しむ活動を行っている。
沿革

現在の校区にあたる地域には明治時代初期の学制発布に伴い、当時の西成郡吉右衛門肝入地(のち東成郡清堀村)に1874年、西成郡第一区第七番小学校が開校した。第七番小学校はのち大阪市清堀尋常小学校と称した。1909年には清堀尋常小学校より清堀第二尋常小学校(のち大阪市立味原小学校)が分離している。

1922年に清堀尋常小学校から分離する形で、当時の東区清堀地区(現在の天王寺区味原・真田山地区)で3番目の小学校として、大阪市清堀第三尋常小学校が開校した。1927年には大阪市真田山尋常小学校へと改称し、また1928年には旧真田山陸軍墓地の一角の現在地に移転している。

国民学校令施行により、1941年に従来の清堀尋常小学校は清堀国民学校へと改称し、また従来の真田山尋常小学校は大阪市真田山国民学校に改称した。

1944年4月には、廃校となった大阪市東雲国民学校の校区の一部を編入している。東雲国民学校は現在の中央区玉造・大阪市立玉造幼稚園の敷地にあった。しかし太平洋戦争の戦時体制として男子商業学校が工業学校に転換されたことに伴い、大阪市では女子商業学校を増設する政策がとられた。校地を新たに探し校舎を新設する余裕はなかったため、既存の国民学校を近隣校に統合させる形で廃校にし、空いた校舎を女子商業学校に転用する策がとられた。東雲国民学校は校舎明け渡し・廃校対象となり、1944年に廃校となった。

一方で前年の1943年には、大阪市の行政区の分増区と境界整理が全市的に実施されていた。大阪市の行政区の境界は、従来は大阪市編入前の旧町村単位などを基準にしていたため複雑に入り組んでいたが、この時に幹線道路や鉄道線路などわかりやすい目印での境界に改めたため、当時の東雲国民学校の校区は従来の東区1行政区から、一部が天王寺区東成区に分割編入されることになった。東雲国民学校の廃校の際、従来の校区のうち天王寺区に編入された地域について真田山国民学校の校区へと編入した。なお旧東雲校校区のうち東区に残った地域については玉造国民学校(のち大阪市立玉造小学校)校区・東成区となった地域については中道国民学校(のち大阪市立中道小学校)校区へとそれぞれ編入された。

また1944年には学童集団疎開を実施している。大阪市での学童集団疎開は各行政区ごとに疎開先の府県が割り当てられ、天王寺区の国民学校では大阪府東部(中河内)および奈良県への疎開が決定した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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