大阪市立天王寺小学校(おおさかしりつ てんのうじしょうがっこう)は、大阪市天王寺区にある公立小学校。 四天王寺の南側に位置する。天王寺区の南部・国道25号以南を校区とし、天王寺駅付近の繁華街や天王寺公園・大阪市天王寺動物園も校区に含まれている。学校は校区の北端に立地する。 学校の南側に国道25号(西行車線)[1]が通っている。児童の交通安全のため、国道25号の南側歩道から地下を通り、直接学校構内へとつながる児童専用地下道が設置されている。児童専用地下道は、日本全国を見てもほとんど例がないとされている。専用地下道入口(国道25号南側) また地域に伝わるなにわ野菜(なにわの伝統野菜)である、天王寺かぶらを栽培する活動を行っている。 1874年に創立し、現在の大阪市立大江小学校とは起源を同じくしている。1920年に現在地に移転している。太平洋戦争の戦災の影響で終戦直後には一時休校となっていたが、1955年に再開校している。 明治時代初期の学制発布により、当時の東成郡天王寺村に1874年6月2日、第五大区一小区一番小学校が開校した。学校の場所は天王寺村烏橋とする記録が残り、四天王寺庚申堂の西側付近と推定されているが、正確な位置については不明となっている。 1878年には天王寺小学校と改称している。1880年には東成郡模範学校の指定を受け、補助金交付を受けている。 1890年4月には当時の天王寺村にあった東成郡谷町尋常小学校[2]を合併し、また同年には四天王寺より学校用地700坪の寄付を受けている。 1891年7月には四天王寺から寄付を受けた土地(現在の大阪市立大江小学校敷地)に移転している。この際に天王寺高等小学校を合併し、東成郡天王寺尋常高等小学校と称した。 また一時期、当時の天王寺村にあった阿倍野尋常小学校・天下茶屋尋常小学校を合併し、天王寺小学校の分教場としていたことがあった。しかし両校ともすぐ再独立している。阿倍野・天下茶屋の両校は1901年に合併し、現在の大阪市立晴明丘小学校となった。 1897年4月1日の大阪市第一次市域拡張により、天王寺村のうち大阪鉄道より北部・西部については大阪市に編入合併されることになった[3]。これに伴い大阪市天王寺尋常高等小学校へと改称し、校区は大阪市南区天王寺[4]および生野国分寺[5]へと改編された。 1900年には下寺町に分教場を設置し、校区西部在住の低学年児童を収容した。1902年には校地拡張をおこない、校舎を増築した。これに伴い下寺町の分教場も廃止されている。 天王寺尋常高等小学校は1903年9月2日、同一敷地(現在の大阪市立大江小学校の敷地)内で、大阪市天王寺第一尋常高等小学校(現在の大阪市立天王寺小学校)と大阪市天王寺第二尋常小学校(現在の大阪市立大江小学校)の2校へ分離した。なお、天王寺・大江の両校とも、2校分離前の天王寺尋常高等小学校(第五大区一小区一番小学校)開校時の1874年6月2日を学校創立と位置づけている。2校の同一敷地共用は1920年まで続いた。 天王寺第二校の開校直後の1903年10月8日には、高等科を天王寺第一校から天王寺第二校に移管した。これに伴い大阪市天王寺第一尋常小学校と改称した。 天王寺地域では児童が増加し、天王寺第三小学校(のち逢坂小学校[6]、1907年1月開校)、天王寺第四小学校(現在の大阪市立聖和小学校、1909年10月開校)、天王寺第五小学校(現在の大阪市立五条小学校、1913年4月開校)が次々と開校した。
概要
沿革
学校創立
地域での学校増設
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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