大阪市営電気供給事業
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電気局の広報施設として建設された大阪市立電気科学館大阪市電気局章[1]

大阪市営電気供給事業(おおさかしえいでんききょうきゅうじぎょう)は、明治末期から昭和戦前期にかけて大阪市が経営していた公営電気供給事業である。大阪市電気局(当時。1945年に交通局へと改称)が所管していた。

事業開始は1911年(明治44年)。当初は先に開通していた路面電車事業の附帯事業として始まったが、市内で電気事業を経営していた民間電力会社大阪電灯の事業を1923年大正12年)に買収して大規模化した。以降、大阪市内への電気供給の一翼を担ったが、1942年(昭和17年)、関西電力の前身である関西配電へと事業を出資し、大阪市による電気供給事業は終了した。
概要

大阪市営電気供給事業は、東京市(当時)や同じ関西地方京都市神戸市などにも存在していた市営電気供給事業のうちの一つである。大阪市電気局が路面電車事業(市電)・高速鉄道事業(市営地下鉄)・乗合自動車事業(市営バス)とともに所管していた。この電気局は電気供給事業が廃止された後の1945年(昭和20年)に大阪市交通局へと改称している(2018年廃止)。

1903年(明治36年)に市営の電気軌道(路面電車)を建設していた大阪市は、続いて市による電気供給事業の経営を志向し、軌道事業の余剰電力を利用して1911年(明治44年)4月、軌道の沿線地域において電力の供給を開始した。これが市営電気供給事業の端緒である。大阪市では1889年(明治22年)より民間の大阪電灯が供給を行っていたことから電気供給事業のうち電灯の供給は同社に譲り、市営事業は電力供給専門として開業したが、1923年(大正12年)10月に大阪電灯から電気供給事業(電灯・電力供給双方)を買収して電灯供給も兼営した。ただし供給区域は市内全域には及ばず市北部の一部区域が他の事業者の供給区域に残り、大手電力会社の宇治川電気日本電力大同電力が大阪市内に重複して電力の供給区域を設定したため、市内への供給を独占したわけでもなかった。

日中戦争太平洋戦争下で電気事業に対する国家統制を強化する動き(電力国家管理)が進むと、大阪市では1939年(昭和14年)と1942年(昭和17年)の2度にわたり市営火力発電所を国策電力会社日本発送電へと現物出資した。加えて配電統制令に基づく国策配電会社関西配電の設立命令を受命し、1942年、残る設備を同社へと出資した。出資に伴い大阪市は関西配電の大株主になったが、その一方で市営電気供給事業は終了した。
市営事業の創始

以下、沿革のうち電力供給事業開始(1911年)から電灯供給事業の市営化(1923年)へと至る経緯について記述する。
市営供給事業の立案大阪駅と大阪市電

1889年(明治22年)5月20日大阪市西区西道頓堀町に建設された発電所から電気の供給が開始され、大阪市においても電気供給事業が開業した[2]。事業主体は大阪市の有力実業家らを発起人として1888年(明治21年)に設立された大阪電灯株式会社である[2]。同社は開業後順次電灯・電力(動力用電力)双方について供給を拡大するとともに、大阪市周辺の東成郡西成郡の町村へも供給区域を拡張[2]1904年(明治37年)には堺電灯から事業を譲り受けて堺市方面へも進出した[3]

1903年(明治36年)9月、この大阪電灯からの電気を利用し[4]、大阪市内に路面電車が走り始めた。埋め立てが進む築港(大阪港)への交通機関として敷設された[5]大阪市営の電車、すなわち大阪市電である。築港への第1期線の開通に続き、路線網を拡充して市内交通を整備すべく第2期線の計画も立案され、1908年(明治41年)、市街地を東西および南北に貫通する路線が開通した[6]。市電の開業当初は、路線が5キロメートル程度と短いことから直営の発電所・変電所を持たず、大阪電灯の変電所から直接電力の供給を受けていた[4]。だが第2期線の計画とともに発電所直営の方針も打ち出し、九条において火力発電所を着工、1908年4月に完成させた(九条発電所)[4]。これが市営電車最初の発電所である[4]

市電第1期線開通後の1906年(明治39年)1月、大阪市会においてある建議案が提出された[7]。市営電車の路線を拡充する際には発電所の規模を拡大し、電気供給事業を市営にてあわせて行うことの利益が認められるので、これについて調査を行いその施行に関する議案を提出されたい、という建議案である[7]。この建議案が満場一致で採択されたため、大阪市の理事者は調査を開始し、電線路180マイル(約290キロメートル)を敷設して電灯6万個、電力3000馬力を供給するという具体案を作成した[7]。かくして市営の電気供給事業開業の議案は市会に提出され、1906年5月に可決、議案に基づき大阪市は市営電気供給事業の経営許可を出願することとなった[7]

以上が大阪市が市営電気供給事業を立案し出願するに至った経緯であるが、市営事業は実際には計画通りに開業していない。これは先に電気供給事業を開業していた民間の大阪電灯との関係にかかわる。そしてそれは同社と大阪市の間に締結された報償契約に由来する。
報償契約問題2代目大阪市長鶴原定吉:大阪電灯との報償契約締結を提起

市営電車開業前の1902年(明治35年)、大阪市では市営による水上交通機関の整備が計画されていた[8]。当時大阪市は市域の拡張(1897年)や人口の集中、上下水道事業・築港事業の実施などにより経費が増大し財政が悪化していたため、市営事業を経営して市費の一部を補おうとしたのである[8]。結局この計画は実現しなかったが、代わりに大阪巡航との間に報償契約を締結し、会社が収入の一部を報償金として市に支払い、なおかつ市の監督を受けることを条件に市は会社の営業区内における事業の独占を保証することとなった[8]。続いて大阪市は、市内への都市ガス供給を計画する大阪瓦斯との報償契約締結に動き出し、翌1903年にこれを実現させた[8]

大阪瓦斯との間に報償契約を締結すると、市は次の目標を大阪電灯に定めた。1903年11月、市の参事会が大阪電灯との報償契約を締結すべきという旨を決議したのである[9]。これを受けて大阪市長鶴原定吉は大阪電灯社長土居通夫を市役所に招いて報償契約の締結を提案し、一方の大阪電灯側は市の要求にある程度応じる方針を固めた[9]。市の提案は、会社側が純利益の5%相当を市に納付するとともに市による経営監督を受ける、かつ1919年以降に電灯事業を市営化する権利を認めるという条件で、市側は道路その他の無償使用と電灯事業における会社の独占を認める、という内容であった[9]。これに対して大阪電灯は、電灯・電力収入のうち2%を納付する、契約期間を50年として市営化の権利を認めない、などの修正を加えた修正案を翌1904年6月に市へ提出した[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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