大阪市中央公会堂
情報
用途公会堂
設計者岡田信一郎(設計原案)、辰野金吾(建築顧問)、片岡安(工事監督)
施工直営工事
構造形式既存部:鉄骨煉瓦造 + 増築部:RC造
敷地面積5,641.81 m²
建築面積2,330.35 m² ※既存部2,164.17m2 + 増築部166.18m2
延床面積9,886.56 m² ※既存部8,425.04m2 + 増築部1,461.52m2
階数地上3階、地下2階、塔屋付
着工1913年(大正2年)6月28日
竣工1918年(大正7年)10月31日
改築2002年9月保存・再生工事完工
所在地
〒530-0005
大阪府大阪市北区中之島1丁目1番27号
大阪市中央公会堂(おおさかしちゅうおうこうかいどう)は、大阪市北区中之島にある集会施設。国の重要文化財。 大阪市中央公会堂(通称:中之島公会堂)は、1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が公会堂建設費として当時の100万円(父親の遺産50万円に自分の手持ち財産を加えたもの。現在の価値で数十億円)を寄付したことにより、1911年8月に財団法人公会堂建設事務所が設立され、建設計画が始まった[1]。 「北浜の風雲児」と呼ばれていた株式仲買人・相場師の岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さやアメリカの富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い感銘を受けた。帰国後、岩本栄之助は父の遺産と自分の私財を併せた100万円を地元の公共施設建設に寄付することを決めた。当時、大阪の中之島は、蔵屋敷の廃止後、町が衰退しその後の町の将来ビジョンをどうすべきか検討中であったので、岩本の寄付金はその町の中心シンボルとして「中央公会堂」の建設に使われることに決まった。なお、「中央公会堂」の所在地は浜田藩の蔵屋敷跡になる。 設計デザインは、「懸賞付き建築設計競技」(最終的に13名が参加)により、当時29歳だった岡田信一郎のデザイン案が1位に選ばれ、その岡田のデザイン原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。辰野金吾は東京駅の建築家でも知られる。 1913年(大正2年)6月に着工、1918年(大正7年)11月17日に中央公会堂は完成し、オープンする。 一方、株式仲買人の岩本栄之助は第一次大戦による株式相場の大変動で大きな損失を出す。周囲の人々は、大阪市に寄付した100万円を少しでも返してもらうように勧めるが、栄之助は「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」としてこれを拒否。1916年(大正5年)10月、中央公会堂の完成を見ないままピストルで自殺した。(享年39歳) ロシア歌劇団の公演、アルベルト・アインシュタインをはじめ、ヘレン・ケラーやガガーリンなどの歴史的人物の講演にも使用された。また、災害後の慰霊祭の式場としても使用されたことがある[2]。 大阪市中央公会堂の建物は鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建ての構造となっている。意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、細部にはセセッションを取り入れており、アーチ状の屋根と、松岡壽によって「天地開闢」が描かれた特別室の天井画・壁画が特徴となっている。 大阪市中央公会堂は日本有数の公会堂建築であり、外観、内装ともに意匠の完成度が高く、日本の近代建築史上重要なものとして2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定された。
概要