大阪城
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豊臣秀吉が築城する以前の古城については「石山本願寺」を、史跡公園については「大阪城公園」をご覧ください。

logo大阪城公園
大阪府
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国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 
別名錦城/金城
大坂城/大阪城
城郭構造輪郭式平城
天守構造複合式もしくは連結式望楼型5重6階地下2階(1585年築)
独立式層塔型5重5階地下1階(1626年築)
いずれも非現存
独立式望楼型5重8階(1931年復興・SRC造
築城主豊臣秀吉
築城年1583年天正11年)
主な改修者徳川秀忠
主な城主豊臣氏奥平氏徳川氏
廃城年1868年明治元年)
遺構櫓、門、石垣、堀
指定文化財国の重要文化財(櫓・門など)
特別史跡
登録文化財国の登録有形文化財(復興模擬天守)
再建造物復興天守
位置

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大坂城/大阪城(おおさかじょう[注 1])は、現在の大阪府大阪市中央区大阪城(上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂)にあった、安土桃山時代に築かれ、江戸時代に再築された日本の城。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。

「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。なお、城址を含む一帯は大阪城公園(おおさかじょうこうえん)として整備されている。1931年に復興された天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。
概要復興天守

太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年天正11年)から1598年慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没している。

現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年元和6年)から1629年寛永6年)にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構である。1959年昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏江戸幕府によるものであることが確定している。

文献等にもよるが、日本三名城の一つに数えられる(他の二つは名古屋城、姫路城、熊本城の内から挙げられる場合が多い)。

天守1931年昭和6年)に鉄骨鉄筋コンクリート (SRC) 構造で、徳川時代に再建された天守台石垣の上に資料の乏しい豊臣時代の天守閣を想像し大坂夏の陣図屏風絵などを参考に模擬復興された創作物であるが、1997年平成9年)に国の登録有形文化財となり、博物館「大阪城天守閣」として営業している。予算の関係で戊辰戦争中の1868年2月2日(慶応4年1月9日)に焼失した本丸御殿、三重櫓11基、二重櫓8基等および太平洋戦争中の1945年(昭和20年)8月14日に焼失した三重櫓1基、二重櫓3基等を木造復元する予定はない。

現在は江戸時代初期から後期にかけて建てられた櫓や門、蔵など建物13棟および内堀と外堀が現存し、城跡は710,000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されている[1]

「おおさかじょう」の表記は、近代以降「大坂」を「大阪」と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。なお「大阪城」は大阪市の町名にもなっている。
歴史・沿革
前史

上町台地の先端であるこの地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると渡辺津から京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々この辺りは1098年の難波古地図に描かれてるように、熊野一之王子(現在は天王寺区)、天王寺高津宮(現在は中央区)、東高津宮(元高津)(現在は天王寺区)、生国魂神社(現在は天王寺区)、坐摩神社(現在は中央区)、難波宮(現在も同じ位置)などがあった地であり古墳時代古墳もあったと言われている。

戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年天正8年)に石山合戦の講和直後に火災焼失した。この石山(大坂)の地は、西日本を押さえるにも優れていたため、『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価し、跡地にさらに大きな城を築く予定であった[2]

石山合戦終結後は、丹羽長秀津田信澄が同地を守備した[3]。一時的な野戦的布陣ではなく、「千貫矢倉」などの建物もあった(『細川忠興軍功記』)ことから、一軍が長期駐屯できるほどの設備が構築されていたと推測される[注 2]

本能寺の変の発生後、大坂にいた信澄は、織田信孝、丹羽長秀らに討たれた[4]1582年(天正10年)6月の山崎の合戦後は、池田恒興が大坂に入った[3]1583年(天正11年)3月の賤ヶ岳の合戦で秀吉が勝利を収めた後、同年6月、恒興を美濃国へ移し、秀吉が大坂を得ることになった[5]

この移封について、フロイスは「此事は実に彼(恒興)の望に反して行はれたるものなり」と記述している(『日本耶蘇会年報』)[3]。一方、秀吉は、天正11年11月5日付の手紙で、「大坂の事、五畿内の廉目能き所に候の間、居城相定」めたと述べている[3]


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