大阪城天守閣
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この項目では、昭和時代に建築された復興天守について説明しています。歴史上存在した大坂城の天守については「大坂城#天守」をご覧ください。

大阪城天守閣

施設情報
前身大阪市立市民博物館
専門分野歴史
管理運営大阪城パークマネジメント株式会社
延床面積5,071 m2
開館1931年昭和6年)11月
所在地540-0002
大阪市中央区大阪城1-1
プロジェクト:GLAM
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大阪城天守閣(おおさかじょうてんしゅかく)は、大阪市中央区大阪城公園大阪城天守内部にある博物館。天守は国の登録有形文化財である。
歴史
戦前昭和の改修時の工事の様子昭和の改修にて市民の寄付によって再建した大阪城天守閣

1925年大正15年)3月15日から4月30日まで大大阪記念博覧会が行われた。会場は2か所で第1会場は本館などがあった天王寺区天王寺公園で、第2会場が大阪城本丸の天守台上に建てられた豊公館であった。豊公館では豊臣秀吉の遺品などの展示が行われ、約70万人が訪れて大盛況となった。この豊公館の人気を見た後藤新平が天守の再建を口にし、大阪市長の關一がそれを耳にして天守の再建を決意したとされている。

關市長は昭和天皇即位の大礼の記念事業として天守の再建と大阪城公園の設置を議会に提案し、大阪市会の承認を得て、大阪城の紀州御殿に司令部を置く陸軍第4師団と協議し、第4師団の新たな司令部を大阪城内に大阪市が建ててくれるならばと了承した。軍部は公園に大勢の市民が自由に出入りすることに抵抗もあったと言われている[1]

さっそく大阪市は市民から寄付を募り、住友財閥住友友成からの25万円の寄付など多くの市民からの協力を得て最終的に150万円が集まった。当時の受付は78、250余口で150万円集まった[2]。天守はこのうちの47万円をもって再建が行われることとなった。現在の天守復興は全て市民の寄付だった[3][4]。新たな第4師団司令部(現・MIRAIZA OSAKA-JO(ミライザ大阪城))の建築費は80万円、本丸・山里丸・二の丸の一部の大阪城公園可整備費に23万円が使われている[1]

天守閣改修の前には事前調査が行われている。総重量は11,000トンで石垣に負担がかからないよう建設の構想が練られた。調査では現在見ることができない天守閣内側も調査されており、石垣の構造、水はけのよい地盤で赤色粘土質などが判明している[1]

こうして、市民の寄付金により1931年昭和6年)10月に鉄骨鉄筋コンクリート構造エレベーター付きの博物館として3代目の大阪城天守が完成した。その外観は、大阪市の中興の祖といえる豊臣秀吉を偲び、大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)に描かれている秀吉の天守をもととして建てられている。大阪市土木局建築課の古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫片岡安、施工は大林組が担当した。昭和時代は全国で天守閣の復興建設が多く行われた。その第一号は大阪城天守閣であり、工法等、後の天守閣復興のモデルとなった[5]

内部は豊臣秀吉と大阪市の歴史を中心とした歴史博物館とするために、天王寺公園内にあった大阪市立市民博物館を閉館し、その資料一切を天守に移して11月7日に天守閣郷土歴史館として開館した。同時に、本丸にある第4師団の以前の司令部であった紀州御殿は大阪市に移管され、本丸・山里丸及び大手門から桜門までの二の丸でもって大阪城公園が開園された。しかし、その面積はわずか7万1千平方メートルであった。なお、山里丸と二の丸を結ぶ極楽橋は、慶応4年1月9日1868年2月2日)に焼失してから掛けられないままとされていた。

最上階高欄下の外壁などにあしらわれたレリーフは、狩野山楽の伏虎図をもとに日本画家の竹内栖鳳が下絵を描き、鋳刻家の大國壽郎が原型を製作した[6]。この虎のレリーフは1935年(昭和10年)12月10日に創設された大阪野球倶楽部のチームの愛称「大阪タイガース」(現・阪神タイガース)の由来になったとも言われている[7]

天守風建築の博物館の嚆矢である天守閣郷土歴史館は、その内部の展示の充実さもさることながら、天守の最上階にある展望台から大阪平野が一望できたことにより大人気を博した。だが、同時に大阪城の東部に広がる陸軍造兵廠大阪工廠(大阪砲兵工廠)もよく見えたため、陸軍からはよく思われていなかった。

しかし、支那事変日中戦争)が勃発した影響により、1937年(昭和12年)11月3日には軍機保護法によって天守からの写真撮影が禁止された。カメラを所持している人は大手門でカメラを預けないと大阪城公園自体に入れないようになる[8]。さらに、1940年(昭和15年)12月には各階にある全ての窓が板で塞がれた。8階には上がれるが、廻縁には出られないようになり、景色が全く見れなくなった。

太平洋戦争中の1942年(昭和17年)9月25日、ついに博物館が休館となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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