最高裁判所判例
事件名傷害致死、傷害被告事件
事件番号昭和63年(あ)第1124号
1990年(平成2年)11月20日
判例集刑集第44巻8号837頁
大阪南港事件(おおさかなんこうじけん)とは、1981年(昭和56年)に大阪南港で発生した傷害致死事件。
本事件は、犯人が被害者に暴行を行い、意識を失った被害者を大阪南港に運んで放置した後に、「誰か」が被害者に別の暴行を加え、最終的に被害者が死亡したという稀有な経過を辿った。この「誰か」が最後まで不明であったことから、刑事裁判において、犯人は、被害者を暴行して傷害を負わせた責任にとどまらず、被害者が死亡したことの責任までを負うべきか否かが争われたため、刑法における因果関係に関する判例として重要な意義を有するものとされる[1]。 経緯については裁判所の認定した事実による。 犯人(以下「A」という。)は、事件当時三重県阿山郡伊賀町に飯場を設けて土建業を経営していた[2]。なおAは、暴行・傷害の粗暴犯の5犯を含めて合計9犯の前科を有していた[3]。また、山口組系の暴力団の組長とみられる男とも接点があり、Aはその男から傷害・暴行を受けたことがあるほか、Aの逮捕後も債権の取立てと称してA宅に出没していたとされる[4]。 Aは、飯場に雇用中の人夫に対して粗暴かつ過酷な扱いをしていた[3]。1979年(昭和54年)4月には、ある人夫がAの扱いに耐えかねて無断で帰郷しようとしたことに激昂し、その後を追いかけて力任せに下腹部を蹴り上げる暴行を加えて陰嚢部挫傷の傷害を負わせている[2]。 1981年(昭和56年)1月15日午後8時ごろ、Aは入浴中であったところ、Aに雇用されていた被害者(以下「V」という。)が、脱衣所の窓ごしに退職して大阪に帰りたい旨を訴えた[2]。Aは、Vが前日にも無断で飯場を逃げ出そうとしていたことを思い出して立腹したことから、Vに対し次のような暴行を加えた[5](以下これらを総称して「飯場暴行」と呼称する。)。 このような暴行により、Vは完全に意識を失っていた。 Aは暴行を行った後、意識を失っているVに防寒コート[6]をはじめとした衣服を着せ、犯行を目撃していた別の人夫(以下「W」という。)に対し「Vを大阪に捨ててきてやる」などと言いながら車に仰向けで積み込み、午後9時30分ごろに飯場を出発し、午後10時40分ごろ大阪南港でVを降ろした。到着するまでの間、Aは4、5回Vのまぶたを開けて眼球を確認しているが、Vの意識はその間一度も回復することはなかった[7][8]。 なお、Aは、大阪南港から飯場に戻った後、Wに対し「Vは母親のところに戻りたいと言っていたので連れて行ったことにしておこう。Vは天王寺に送って行ってきれいに別れた。」などと、また犯行の1ヶ月後には内妻に対して「VはAやWが肩を貸したら自分で歩いて帰ったと警察に言え。」などとそれぞれ告げ、偽証を働きかけている[9]。 犯行翌日の1月16日午前6時40分ごろ、資材を運搬してきたトラック運転手により、顔面を砂利にめりこませるようなうつぶせの状態のVの死体が発見された。
公判請求に至るまで
犯人の属性
被害者への暴行
洗面器に風呂の湯を汲んで窓越しにVの顔面に浴びせかけた。
1を受けて悲鳴を上げて下を向いたVの右側頭部・右後頭部を、洗面器で3回くらい力いっぱい殴りつけた。
窓から手を伸ばして洗濯機のそばの水道からホースでVに水をかけた。
洗濯機に両手をかけてその場にしゃがみこんで顔をかばうようにしているVに対し、窓越しに皮バンドで右側頭部・右後頭部を5、6回力いっぱい殴りつけた。
Vの両手を1回殴打して後ろ向きに転倒させ、Vの後頭部をトタン塀に打ち当てさせた。
意識を失ってうめき声をあげながら仰向けに倒れているVの右脇腹を1回足蹴りにし、両頬を2、3回平手打ちし、池から汲んだ冷水をVにかけた。
意識を回復することなく脱糞しているVをその場から5メートル引きずった後、Vの頭髪を掴んで頭を持ち上げて2、3回殴打し、つかんでいた手を離して後頭部をコンクリートの土間に打ち当てた。
Vのズボンを脱がせて下半身を裸にし、池から汲んだ冷水を2、3回下腹部にかけた。
Vの着衣を脱がそうとしてVの背中に膝を当てて上半身を起こしたところで、膝を外して後方に転倒させて後頭部をコンクリートの土間に打ち付けさせた。
苦しそうな息をして嘔吐しているVの頭髪をつかんで頭を持ち上げ、手を離して頭部を土間の上に打ち付けた。
Vを全裸にして池から汲んだ冷水を臀部にかけた。
大阪南港への遺棄
死体の発見
Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef