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別名OPD
出身地 日本・大阪府大阪市
ジャンルJ-POP
ポップ
ロック
ハウス
デステクノ
ヒップホップ
ジャズ
ソウル
レゲエ
ラガマフィン
活動期間1993年4月 - 1997年
2008年(15周年限定復活)
2018年(25周年限定復活)
2023年(30周年限定復活)
2024年(稲葉貴子50歳誕生日記念)
レーベルCha-DANCE(Epic/Sony Records)
エピックレコードジャパン
Laugh&Peace Music
事務所吉本興業(1993年4月 - 1997年,2008年,2018年,2023年,2024年)
共同作業者中村龍史
清水彰彦(アッキー清水)
今田耕司
東野幸治
RHYMESTER
公式サイトoffical page
メンバーOPD自然消滅後の第1期ライブメンバー,第2期追加メンバー,第3期追加メンバーの活動状況が不明確なため、F/Unitメンバーのみを記載
武内由紀子 ※リーダー
稲葉貴子
古谷文乃
上田美穂
中野公美子
大阪パフォーマンスドール(おおさかパフォーマンスドール、英: Osaka Performance Doll、略称OPD、後に略称そのままのOPDに改称)は、東京パフォーマンスドール(TPD)の姉妹グループとして、吉本興業が大阪府在住の女性を対象としてオーディションを行い1993年4月に結成した女性アイドルグループである。ライブアイドルの先駆けとして大阪府にあった劇場であるうめだ花月を定期公演の会場として活動していた。
当時のアイドルグループとしては先駆け的にダンスボーカルパフォーマンスを行い、TPDと共に後のアイドルグループの原型となった。約800人がオーディションに参加し、最終的に19人の加入が決定した。更にその後の中村龍史の指導による厳しいレッスンにおける評価を経て、上位5人がメディア露出やCDリリースを担うフロントメンバー「F/Unit(エフ・ユニット)」として選出された。大人びた作風のTPDとは異なり、OPDの作風は大阪らしい快活でポップでダイナミックな作風が特徴で、特に初期はディストーションの掛かったエレキギターの音色を積極的に導入してロックの風味付けが行われた曲が多い。そして2ndアルバム以降、当時最先端の様々なクラブサウンドを投入し、アイドルでありながらコアな要素を強めて行った。TPDを発案してプロデュースした中村龍史がOPDでもプロデュースを担当した。AKB48のルーツであるTPD[1][2]の姉妹グループとして大阪を拠点に定期公演を行った点で、同じく吉本興業グループが参与するNMB48のルーツのような存在である。標準語の楽曲が多いが、大阪弁ラップ曲の『あかん!』に代表されるように大阪弁を活用した楽曲もあり、先駆け的にローカルアイドルとしての役割を担っていた。初期はうめだ花月で定期公演を行っていたが、後に定期公演を縮小し、全国ツアーやテレビ番組出演に移行していった。併せて、街頭でのゲリラライブも行った。Wコウジ(今田耕司・東野幸治)との共演でも有名である。TPDと同じく、従来のアイドルにはない数々の先駆的な試みを行った。 「家から通える芸能界」を合言葉に、大阪府在住者を対象にオーディションを行い1993年4月に結成[3]。メンバーの過去のダンス経験が不足していることもあって暫くの間、デビューに向けた準備として中村龍史の指導の下で非常に厳しいレッスンを行い、実力の評価に基づき厳選されフロントに立つことを許された5人のCDメンバー「F/Unit」と、その他大勢のライブメンバーにふるい分けが行われた。また、デビュー前の段階で数名がOPDを脱退した。1993年8月2日、大阪府大阪市の吉本会館B1Fにあった吉本興業が運営するディスコ「Desse Jenny(デッセ・ジェニー)」でデビュー記者会見を行う[4][5]。続いて1993年8月16日、東京パフォーマンスドールの日本武道館公演の前座で1曲のみではあるがライブパフォーマンスを初披露する。その後、1993年8月21日の「24時間テレビ 愛の歌声は地球を救う16」への出演を経て、1993年10月9日には活動初期の定期公演の会場となるうめだ花月で初ワンマンライブ「Dance Re-Mix」[6]を行い、メディア露出やライブ活動を継続した。1994年3月?4月、F/Unit+2(F/Unitに重元直美と中村亜紀を追加)という限られたメンバーであるが、初のライブツアーとなる「Spring Tour '94」を東名阪で開催[7]。1994年5月以降、大阪で毎週土曜日にストリートゲリラライブを開催[7]。更には1994年8月25日にOPD初の海外ライブとして、上海で上海パフォーマンスドール(SPD)のメンバーを最終決定するオーディション番組[8](日本でも放送)にTPDと共に出演し、最終決戦で選ばれたばかりのSPDと競演した[7][9]。1995年11月3日には大連に赴いて再度SPDと競演している[10][11]。また、1994年6月22日に発売した「チェリー・パレード」と「あかん!」ではラップパートを初導入、1994年11月2日に発売した「So BLUE So Funny」という曲ではヒップホップグループであるRHYMESTERとのコラボレーションを行い、当時の女性アイドルグループとしては珍しいヒップホップ曲を制作している。しかし、デビュー時点で第二次アイドル冬の時代に突入していたためCDの売れ行きは芳しく無く(最高でもデビューシングルのオリコンランキング57位)、1994年末以降はオリコンランキング圏外が連続するようになり、次第に個々の活動が目立つようにもなった。オリコンランキングの順位が振るわなくなった時期である1994年10月1日から1995年3月16日にかけては、売れないアイドルを集めた特別番組である『今田東野ナイナイの芸能界ダメならぬがねば!!』と後継深夜番組の『天使のU・B・U・G』に出演し、武内由紀子が日直MCを務めた際にメンバー自身がCDの売上枚数が厳しい状況にあることを伝えている。1996年には名称を略称そのままの「OPD」に改名し、3月30日の東京 ON AIR EAST(現Spotify O-EAST)公演をもって第1期F/Unitの古谷文乃と稲葉貴子(後の(s)pirit colorメンバー)が卒業し、その後に第2期として大幅なメンバー・チェンジを行なったものの、1997年に自然消滅(当時は公表していないが、よしもと大博覧会の出演前に最後のライブ出演を通告され、定期的に行っていたダンスレッスンも何の前触れもなく無くなったとのこと)という形になった[12]。1996年頃にゴスペラーズと共演したこともある[13]。事実上の最終ワンマンライブは、1996年6月11日?13日,16日の4日間で東名阪と福岡を巡るOPD SPECIAL LIVE COLLECTION 「♂(ボーイ)と♀(ガール)はマグネット。ピタッ!」という、ハガキ抽選による招待制ライブツアーの最終日公演で、その後は自然消滅までの間、細々と東京ドームで開催された「よしもと大博覧会」に出演したのみである。しかし、リーダーの武内由紀子によれば、解散は明言していないため、OPDの存在自体については中途半端な状態が継続しているとのことである[14]。グループとしての活動は殆ど無くなったが、OPDのメンバーはデビュー30周年の2023年に至るもLINEグループで常時情報交換を行っており、「家族」として助け合う関係性を維持している[15]。1990年代の第二次アイドル冬の時代にあって、努力の甲斐もなく、J-POP全体から見た人気度で言えばB級的な立場にあったTPDよりも更に人気が低く冷遇[16]されたため、メンバーにおいては非常に辛い思い出となっており、活動再開についてはかなり消極的である。過去の復活としては、リアルタイムにOPDを体験したファン向けの復活トークイベントが2018年[17]の1度,復活ライブが2008年[18]と2023年[19]に2度行われたのみである。但し、(s)pirit colorのライブでは会場の近くに住んでいるメンバーをゲストに呼んで1?2曲ほど歌唱することはある。 また、リーダーを務めた武内由紀子の述懐によると、既に活動実績がある東京パフォーマンスドールと比較して扱いは低く、衣装などの嵩張る荷物であってもボストンバッグに詰めて自分たちで運ぶ必要があり、また移動は全て鉄道であり、衣装はパジャマのような簡易なものが用意されるかあるいは本家の東京パフォーマンスドールで着古した衣装を借りることが多かったと言う[14]。 OPD単独のライブやMVを収録した映像作品は発売されておらず、資料用の記録映像を確認できる関係者か、リアルタイムでライブを体験したファン以外がOPD単独としてのパフォーマンスを観ることは不可能である。但し、前座として出演した1993年8月17日のTPDの武道館ライブ「Thats The Revue」の映像作品には、舞台裏での姿のみが僅かに収録されている[20]。また、1994年8月7日のTPDの横浜アリーナライブである「That's the REVUE 1994」の映像作品である「VIDEO Cha-DANCE Vol.12」でもOPDメドレーとバックダンサーとしてのパフォーマンスが確認できる[21]。
略歴