大阪スタヂアム
Osaka Stadium
1985年当時の大阪球場。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
大阪スタヂアム(おおさかスタヂアム)は、かつて大阪府大阪市浪速区難波中二丁目に存在した野球場。プロ野球の南海ホークス、近鉄パールス、大洋松竹ロビンスが本拠地として使用していた。通称は「大阪球場」(おおさかきゅうじょう)[2]。
南海難波駅(南口)駅前に存在したため、「ナンバ(難波)球場」という通称でも親しまれた。 南海は戦前、堺市にあった中百舌鳥(なかもず)球場を主本拠にしていたが、グラウンドの立地条件が悪く不便だったことから公式戦での使用機会が少なかった。特に戦後になってからは中百舌鳥での公式戦は1試合も開催されることはなかった。 1948年の戦後第3回の日本職業野球リーグで優勝した際、GHQ経済科学局長のウィリアム・フレデリック・マーカット少将(「M資金」の語源となった人物)が南海球団の松浦竹松社長に「ホームタウン・ホームグラウンドはどこか?」と問うと松浦は「大阪府が本拠であるが、自前のグラウンドがないので甲子園(兵庫県)を使わせていただいている」と答え、マーカットは自前のグラウンドを建設してもいいと提案。そこで、これまで公式戦を開催したことのなかった大阪市に目をつけて、南部の最大の繁華街である南海難波駅の南口に面した南西側駅前の旧専売局(現:日本たばこ産業)の工場跡地に建設した。この地は江戸時代に米蔵(難波御蔵)が置かれていたために、現町名の以前は(難波)蔵前町という町名であった。また、同じ大阪を拠点とする大陽ロビンスも北区玉江橋の関西相撲協会の所有地を買収して建設候補地にあげていたが、その案には西宮市(兵庫県)をフランチャイズとする大阪タイガース(阪神)や阪急ブレーブスが「ターミナルの梅田に近く、客を奪われる」ことを恐れて反対した[3]。阪神と阪急は、南海による難波球場建設を支持。日本野球連盟も候補地を視察して難波案を採用したが、大陽のオーナーだった田村駒治郎が「南海が1年以内に建設できなければ自分の手で球場を作る」と主張したため、南海は1年以内に完成できるよう工事を進めざるを得なくなった[4]。 1950年9月12日、工期わずか8か月の突貫工事(設計:坂倉建築事務所[5]、施工:竹中工務店、間組)で完成。戦災後の復興期にあり、粗末なバラックばかりがひしめき合っていた大阪市内の中心部で本格的な鉄筋コンクリート造りの大規模建築として完成した本球場は、当時「昭和の大阪城」と称えられた。建設当初のグラウンドの広さは両翼84メートル、中堅115.8メートル。副収入を得るため、日本の球場では初めて観客席下に多数のテナントを入居させるスペースを設けた。この空間確保と狭い敷地に極力多くの客席を設けるという2つの目的によって、スタンドを急傾斜に設計したことから「すり鉢球場」と言われた。内野スタンドの傾斜は37度にも達し、打球音が銃撃音にも似た独特の反響を残すことは選手の間でも知られていた。 このグラウンドの狭さから、当たり損ねの打球が外野フェンスを越えて本塁打になってしまうなど、投手泣かせの球場であった。西鉄ライオンズOBの中西太は本球場でバットを折りながらも打球を外野スタンドへ入れたと言われ、杉浦忠、皆川睦雄ら南海黄金時代のエース級投手の絶妙な制球力はグラウンドの狭さによって培われたとの説もある。 1951年、関西地区の球場で初めて夜間照明設備を設置。同年に初ナイターを開催(南海対毎日オリオンズ戦)。内野スタンドに日本初のボックス席を設けたのも本球場である。1950 - 60年代は鶴岡一人監督率いる南海の黄金期であり、毎年優勝争いを繰り広げており関西では南海は阪神をしのぐ人気球団であった。
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