大関
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「大関」のその他の用法については「大関 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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番付の地位


横綱

大関

関脇

小結

前頭(平幕)

十両





幕下

三段目

序二段

序ノ口

番付外  

現役大関の貴景勝

大関(おおぜき)とは、大相撲力士の地位の一つ。横綱の下、関脇の上。三役の最上位。幕内に属する。
概要

「大関取」が語源とされ、明治中期までは力士の最高位であった。本来「三役(力士)」とは「大関・関脇小結」を指し、大関は三役の最上位であるが、制度上の特権も多く、関脇や小結とは区別して扱われることが多い。本場所では幕内力士として15日間毎日取組が組まれる。

江戸時代の大相撲初期からある地位であり、必ず最低2名(東西1名ずつ)はおかれなければならない。江戸時代には大関に適した者がいない場合など看板大関といって、ただ大きくて見栄えがするというだけの理由で名前だけの大関にしたケースが多かった。その後、大関の上にさらに地位として付け加えられた横綱と共に、その地位(昇進および陥落)を厳密に管理されるようになった(後述)。そのため、実力者が不在のときは大関が1人以下になるが、その場合は横綱が「横綱大関」と名乗って形式上は大関を兼ねる。横綱も含めて1人以下になった場合は、定説としては関脇以下から補充しなければならないものとされてきた。現在までのところそのような事態は発生していないが、1横綱1大関となっていた2023年3月場所にて大関・貴景勝が3勝3敗で途中休場したため、同年5月場所にてその事態が発生する可能性があった(同場所にて貴景勝が負け越し、かつ昇進の目安を満たす力士が出なかった場合、あるいは横綱・照ノ富士が引退した場合が該当)。なお現理事長の八角は、大関空位時の関脇以下からの補充に関しては否定的な見解を示している[1]ため、今後は状況次第では横綱と大関の合計人数が1人または不在になることもありうるという可能性も示唆される。

大関昇進後の待遇としては、協会から支給される月給が250万円となり[2][3]、関脇の時よりも大幅に増える。新大関に昇進すると、名誉賞として50万円が授与される。ただし大関から陥落した力士が大関に復帰(再昇進)した場合は授与されない。また両国国技館の地下駐車場に直接自家用車を乗り入れ、駐車することも可能となる[注釈 1]。さらに、海外場所など、協会の公式の移動においては、飛行機ファーストクラス、鉄道(新幹線)ではグリーン席グランクラスは不可)に座ることができる。化粧廻しの馬簾の色に紫を使えるのも、基本的には大関以上の特権である[注釈 2]。国技館では、原則大関以上の力士がプロデュースした弁当が販売される[注釈 3]。また師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる(これについては引退時に大関から陥落していた場合であってもこの権利は維持される)。

日本国籍を持つ大関力士は、協会が財団法人であった時代には、評議員として役員選挙の投票権をもっていた。横綱・大関の日本国籍をもつ力士の中から、地位・年齢を加味して4名まで選出されていた。この権利は、協会が公益法人となったときに廃止された。

大関としての責任を果たしたとの印象を与える成績としては、一般的には10勝以上(2桁勝利)が目安とされるが、実際にはこのほか相撲内容やその他の状況で一概には言えない面もある。実際には大関として9勝6敗や8勝7敗の成績も決して珍しいことではなく、この成績でも勝ち越しに変わりはないため大関からの陥落に繋がることはなく、特に角番の状態での8勝目は翌場所の大関陥落を免れる形となり、「角番脱出」と呼ばれるが、9勝6敗や8勝7敗のような成績が続く大関は、俗に「クンロク」「ハチナナ」と呼ばれ、大関の地位は長期間維持するがいつまでたっても横綱にはなれないという意味もあり、あまり名誉なこととはされていない。横綱ほど風当たりは強くないにせよ、頻繁に負け越しや休場で角番になっては9勝6敗や8勝7敗で辛うじて角番を脱出することを繰り返すような大関はなおさら批判に晒されがちである。
大関への昇進詳細は「昇進伝達式」を参照

番付編成を所管する審判部が、ある力士を大関に昇進させたいと判断した場合、審判部長が日本相撲協会理事長に当該力士の大関昇進の可否を審議する臨時理事会の開催を要請し、理事会での審議の結果、当該力士の大関昇進が決定すると、協会から使者が当該力士のもとへ派遣され、昇進伝達式が行われる。当該力士は、翌場所の番付発表を待たずに、この時から大関として扱われる[4]。よって昇進伝達式の後、翌場所の番付発表までは、大関ではあっても同じ大関の中での順位(東か西か、あるいは正位か2枚目以降(以前の張出)か)がまだ発表されていない状態となる(ただし近年のケースでは、翌場所の番付では新大関は角番大関の有無に関わらず原則同じ大関の中で最下位となる)。大関の推挙は、理事会の賛成を経て満場一致でなければならないとされ[5]、理事会で異議があったとしても昇進者は慣例的に「満場一致で賛成」された扱いとなる[注釈 4]。現行制度下では理事会において大関昇進が否決された例はなく、審判部長が臨時理事会の開催を要請した時点でマスコミ報道においては大関昇進が内定していると扱われている。

なお、関脇が大関の地位を狙うことを「大関取り」と呼ぶ。協会内では「昇進の機運」という表現が用いられる[6]。場所前から「大関取り」の話題が持ち上がることもあれば、場所前は「大関取り」と見られていなかった力士が好成績のため場所途中から「昇進の機運」が急浮上する事例も見られる。
昇進の目安

大関昇進については横綱昇進における横綱審議委員会の内規のような明文化された基準は特になく、マスコミが推測するおおよその目安も時代により変化している。もっとも、「番付は生き物」の語が示すように、協会は一貫して協会が目安を持っていること自体を否定して[注釈 5]、勝星数だけでなく相撲内容や印象、優勝やそれに準ずる成績の有無、直前場所の成績[注釈 6]、それぞれの場所での番付(関脇・小結・前頭の別)や10勝以上に乗せているか否かの別、番付編成上のバランス等も含めて総合的に判断される。そのため、勝星数で過去の例を下回りながら大関に昇進した力士、勝星数で目安を満たしながら大関に昇進できなかった力士が少なからず存在する[7]。なお、明文化されているわけではないが、例えば直近3場所の合計勝星が「全勝、7勝、13勝」という成績だった場合、合計35勝になるので目安上は昇進条件を満たしているが、負け越しが含まれているので昇進については議論されないだろうと考えられている。もし直近3場所の中で負け越しが含まれている場合、直近2場所で綱取りと同様に連続優勝することが代わりの昇進条件とされると考えられる[8]。ただし、この場合は負け越した場所が3場所前でなければならない。なお、これまで3場所連続全勝による「直前3場所合計45勝」で大関に昇進した者は存在しない。
年6場所制施行?昭和50年代半ば

昭和期においては「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が30勝以上」が大関昇進への目安とされてきた[9]

1972年(昭和47年)3月場所を終えた長谷川の直前3場所は、全て関脇で8勝-10勝-12勝(優勝)の合計30勝を挙げ、目安を満たしかつ直前場所で優勝したが、この場所12日目の大関同士の一番(琴櫻-前の山戦)が相撲競技監察委員会から初の無気力相撲の警告を受けた[10]ことから場所終盤の話題はそちらに集中し、長谷川の大関昇進の機運は全く盛り上がらなかった[注釈 7]。次の5月場所も長谷川は直前3場所を10勝-12勝(優勝)-8勝の計30勝だったが再度見送られ、その後の長谷川は好成績を挙げられず、結局大関昇進は果たせなかった。
昭和50年代半ば?平成初期

長谷川の例以降は、大関の資質や目安が昇進の問題にされる事例はしばらくなく、このころは、「30勝以上」からのちの「33勝以上」へと目安が変化する過渡期であるといえる[注釈 8]


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