大長寺
本堂
所在地神奈川県鎌倉市岩瀬1464
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度21分21.9秒 東経139度32分48秒 / 北緯35.356083度 東経139.54667度 / 35.356083; 139.54667
大長寺(だいちょうじ)は、神奈川県鎌倉市岩瀬にある浄土宗の寺院。山号は亀鏡山。本尊は阿弥陀如来。創建当初は「大頂寺」と名乗っていたが、後年「大長寺」に名称を改めた。
[5] この寺は1548年(天文17年)、時の玉縄城城主の北条氏繁が、母の供養のために北条綱成の開基により建立された。なお開山は綱成が兼ねてから尊崇していた感誉存貞が勤めた。その後、代々後北条氏の崇拝を集め、北条氏ゆかりの寺宝も多い。
歴史
暁誉源栄と家康は古くから面識があり、その後も度々交流した。寺名を現在の「大長寺」に変更したのはこのころの事で、一説によると山号が「亀鏡山」であることを聞いた家康が、亀は大長寿なので、大長寺と名乗るよう寺名を変えさせたとの事である。
歴代住職
初代 感誉存貞
二代 雲誉円也
三代 源誉存応[注釈 1]
四代 暁誉源栄[注釈 2]
五代 不明
六代 永威 -1644年(正保元年)、境内に心蓮社を開基する。相模国風土記稿の頃では心蓮社蹟と記述あり。本尊の阿弥陀像は大長寺に移された[6]。
境内
山門 - 銅葺き
本堂 - 1882年(明治15年)に火災で全焼。1911年(明治44年)に再建された[7]。
方丈 - 大頂院殿・七曲殿の住まいを移した物と伝わる。
イチョウの樹 - 本堂の前にあり。徳川家康手植えの物と伝わる。
鐘楼 - 文政3年(1820年)9月、西村和泉守藤原政時の銘が刻まれた梵鐘がかかる[7]。
吉祥水・梅の井 - いずれも存貞が祈祷の末、掘り当てた井戸と伝わる。現存[8]。
後北条一族の墓 - 裏山の墓地に後北条一族の墓と伝わる石塔が五基存在する。詳細は下記の通り。
大頂院殿(北条綱成正室)墓 - 石塔には「大頂院光譽耀雲大姉 永禄元(1558年)稔戊午九月十日」と彫られている。
北条繁広墓 - 石塔には表に「泰清院殿恵雲常智大居士 慶長十七(1612年)子天六月八日」、裏に「北條常陸介氏繁男、新左衛門繁廣」と彫られている。
北条氏繁室(七曲殿)墓 - 五輪塔
不明 - 石塔には「水月妙清大姉」と彫られているが、誰のものかは不明。
不明 - 石塔には文字は彫られておらず、誰のものかは不明。
本尊
阿弥陀三尊
寺宝
倶利伽羅龍の図 - 北条氏康寄進。巨勢金岡作と伝わる[注釈 3]
山越阿弥陀図 - 大道寺政繁寄進。
養勝院殿[注釈 4]木像 - 1549年(天文18年)9月18日製。[10]
四季詠歌短冊4枚 - 春夏秋冬の歌を記載した短冊。春は後柏原院、夏は九条忠栄、秋は仙洞[注釈 5]、冬は八条桂光院の筆と伝わる。
銅雲盤 - 北条綱成寄贈。天文17年(1548年)の銘が残る物だが、1882年(明治15年)の火災で焼失した。[7]新編相模国風土記稿に絵図が残っている[11]。
[12]
脚注
注釈^ 『新編鎌倉志』は開山としている[1]。
^ 浄土宗系譜では源栄を大長寺2代目住職としており、鷲尾(1903年)もその説を採用している。
^ 現存、巨勢は平安時代の画家だが鎌倉春秋社(2001年)によると、鎌倉時代の作としている。
^ 養勝院殿はかつては、北条為昌の妻と考えられてきたが、現在では北条綱成の実母と考えられている(ただし、綱成の父親については諸説あるため、誰の妻かは確定できない)[9]。
^ 仙洞御所の項も参照。上皇・法皇の事を指すと思われるが、誰にあたるかは不明
出典^ a b c 新編鎌倉志 1915, p. 79.