大錦一徹
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大錦 一徹

基礎情報
四股名尾堀 盛夫→尾堀 充周→大錦 充周→大錦 一徹
本名尾堀 盛夫
愛称佐渡の怪童
[1]
生年月日 (1953-09-11) 1953年9月11日(70歳)
出身新潟県佐渡郡羽茂町
(現・同県佐渡市羽茂)
身長185cm
体重145kg
BMI42.37
所属部屋出羽海部屋
得意技左四つ、寄り、下手投げ
成績
現在の番付引退
最高位東小結
生涯戦歴750勝740敗28休(117場所)
幕内戦歴348勝428敗19休(53場所)
優勝十両優勝4回
幕下優勝1回
序二段優勝1回
敢闘賞1回
殊勲賞1回
技能賞1回
データ
初土俵1968年5月場所
入幕1973年9月場所
引退1988年1月場所
引退後年寄・山科
備考
金星8個(琴櫻1個、輪島2個、若乃花3個、千代の富士1個、双羽黒1個)
2012年12月11日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

大錦 一徹(おおにしき いってつ、1953年9月11日 - )は、新潟県佐渡郡羽茂町(現役当時、現・同県佐渡市羽茂)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は尾堀 盛夫(おほり もりお)。身長185cm、体重145kg。得意手は左四つ、寄り、下手投げ。最高位は東小結1973年11月場所)。
来歴・人物

中学在学時に、実家近くの味噌製造会社の常務から勧誘され、「好きなだけ食べられる」という口説き文句が決め手となって出羽海部屋に入門。1968年5月場所にて、14歳で初土俵を踏んだ。本人は「テレビに映る幕内以上の力士になる」と入門に際して意気込んでいた[2]

「稽古していれば何も言わなかった」という9代出羽海の元で熱心に相撲に励み、9代出羽海に言われたことは二度と繰り返して言われないように心構えを持っていた[2]

入門から丸5年経った1973年5月場所に於いて、19歳で十両に昇進した。同場所では11勝4敗と大きく勝ち越し、十両優勝を遂げている。

十両は2場所続けての大勝ちにより僅か2場所で通過し、同年9月場所で新入幕を果たした。

十両2場所目の同年7月場所より、本名の「尾堀」から同部屋の大先輩でもある横綱・大錦と同じ四股名に改名したことから、如何に期待されていたかが窺える。

非力だったが、左で前廻しを取り右をおっつけて一気に出てゆく[1]か左半身で取る、同部屋の先輩・出羽錦に似た独特の取り口。

新入幕の場所から優勝争いに加わり、横綱琴櫻[3]大関貴ノ花を破るなど大活躍[1]。新入幕力士が横綱戦で勝利したのは、1941年5月場所にて双見山(西11枚目)が男女ノ川を破って以来、32年4ヵ月ぶりの快挙であった[4]。千穐楽には新入幕としては極めて異例の三役揃い踏みにも参加[5]、11勝4敗という好成績を残し、史上初の新入幕三賞独占受賞を果たし、佐渡の怪童と呼ばれ注目を集めた。三賞独占は前場所での大受に続いて、2場所連続の事例となった。

翌11月場所では自己最高位となる東小結に昇進したが、壁にぶつかり、星が伸びなかった(結局三役経験は、これが最初で最後)。この当時、北の湖若三杉麒麟児金城と、同じ昭和28(1953)年生まれ(麒麟児、金城は早生まれのため学年は違う)の幕内力士が揃ったので、彼ら4人とともに「花のニッパチ組」と呼ばれた。

糖尿病や膝の故障もあり一時は幕下まで陥落したが、持ち前の稽古熱心さと結婚を機に再起し、1981年3月場所で7度目の入幕を果たした。

なお、幕下まで陥落した場所(1979年5月場所)では、前相撲から無敗であった実業団出身の大物・板井に初めて土を付けた(その勝利を含め、当場所は7戦全勝している)。

以降は三役に復帰することはできなかったが稽古熱心なベテランとして出羽海部屋を支え、また横綱・大関戦に強く金星を8個獲得、引退4場所前の1987年7月場所でも双羽黒から金星を獲得した。引きずるような投げに威力があり、琴風が大関から陥落したのは、大錦の上手投げにより膝を故障したことが原因だった。

1987年9月場所を最後に幕内から遠ざかり、十両9枚目の地位で大負けした1988年1月場所限りで、現役を引退。最高位は小結止まりであったが現役時代には大器として見られ、1981年3月場所6日目に行われた座談会では向坂松彦から「大錦さんだって土俵入りの稽古をしているんでしょう」とからかい交じりに期待の意を寄せられた[6]。現役時代の思い出の取組は、西幕下2枚目で迎えた1973年3月場所の6番相撲で、この取組で新十両昇進を決めたものであった[2]

引退後は年寄・山科を襲名し、出羽海部屋付きの親方として後進の指導に当たった。その傍ら、2003年より協会在勤委員として中学校の同期生[7]でもある北の湖理事長(元横綱)の秘書室長的役割を負った。理事長が交代した後は、同門の武蔵川理事長(元横綱・三重ノ海)の元で勤め、2010年2月に役員待遇に昇格した。

2017年1月場所後の職務分掌では審判部副部長に配置転換[8]された。最高位が小結で審判副部長となるのは大錦が初である。審判部副部長は2018年3月場所まで務めた。同年9月に65歳を迎えたため、9月場所限りで日本相撲協会を停年(定年)退職となり、再雇用制度は利用せず角界を離れた[9]
エピソード

1982年9月場所3日目、対戦相手の
高望山の休場で、不戦勝を得た。だが、翌日自身も急性の腰痛で休場したため(対戦相手は神幸)、史上初めて不戦勝の翌日が不戦敗になった(その後、1992年3月場所で起利錦も記録している)。

小錦が幕内に昇進した当時、対戦時には「大きな小錦と小さな大錦」等と紹介されることもあった。ただし、身長は大錦が186cmと小錦より2cm高い。

幕内と十両を幾度となく往復し、入幕した回数は、引退までに計12回を数えた。これは、大潮(13回)に次いで、大相撲史上2位の記録である。

2017年11月場所11日目の嘉風戦で立合い不成立を訴えて自身が負けた取組に対して物言いをつけた白鵬に厳重注意を行っており、取組に参加した力士はその取組に対する物言いが付けられないということを白鵬に伝えた。審判長を務める大錦は「それは明日みんなと相談して。横綱を呼び出すのは俺一人じゃ決められない」と厳重注意には慎重な姿勢だったが、立ち合い不成立を訴えた横綱・白鵬の“抗議行動”については「手本になる人がねえ」と残念がった[10]

主な戦績

通算成績:750勝740敗28休 勝率.503

幕内成績:348勝428敗19休 勝率.448

現役在位:117場所

幕内在位:53場所

三役在位:1場所(小結1場所)

三賞:3回

敢闘賞:1回(1973年9月場所)

殊勲賞:1回(1973年9月場所)

技能賞:1回(1973年9月場所)


金星:8個(琴櫻1個、輪島2個、若乃花3個、千代の富士1個、双羽黒1個)

各段優勝

十両優勝:4回(1973年7月場所、1977年7月場所、1980年3月場所、1984年1月場所)

幕下優勝:1回(1979年5月場所)

序二段優勝:1回(1969年3月場所)


場所別成績

大錦 一徹 一月場所
初場所(
東京) 三月場所
春場所(大阪) 五月場所
夏場所(東京) 七月場所
名古屋場所(愛知) 九月場所
秋場所(東京) 十一月場所
九州場所(福岡
1968年
(昭和43年) x x (前相撲) (前相撲) 西序ノ口9枚目
5–2  西序二段41枚目
2–5 
1969年
(昭和44年) 東序二段59枚目
1–2–4  東序二段76枚目
優勝
7–0 西三段目51枚目
1–6  東三段目77枚目
3–4  東三段目84枚目
2–5  西三段目98枚目


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