大野治長
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例大野治長
大野治長像[1]
(『大坂夏の陣図屏風』より抜粋)
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕永禄12年(1569年)頃
死没慶長20年5月8日1615年6月4日
改名治良[2]
別名通称:修理亮、修理大夫
戒名節叟元忠禅定門
官位従五位下修理大夫
主君豊臣秀吉秀頼
氏族大野氏
父母父:大野定長(佐渡守)、母:大蔵卿局
兄弟治長、治房治胤治純
妻南陽院[注釈 1]
子治徳(長徳)、治安(弥七郎)
テンプレートを表示

大野 治長(おおの はるなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名豊臣氏の家臣。通称は修理亮または修理大夫で、大野修理の名でも知られる。

能書家であり[3]古田重然(織部)に茶の湯を学んだ茶人でもあった[4][5]
生涯
不確かな前歴

父は大野定長(佐渡守)で、母は大蔵卿局といい、浅井長政お市の方の娘である淀殿乳母となったので、淀殿とは乳母子(めのとご)の間柄になる。淀殿の生年には諸説あるが、この経緯から考えれば、治長は同い年かそれに極めて近い年齢と考えられるので、最も有力なのは永禄12年(1569年)前後であろう。兄弟には、治房(主馬首)、治胤(道犬/道見)、治純(壱岐守)[注釈 2]がいた。

出生地には二説あるが、『尾張群書系図部集』は『尾張志』『張州雑志』などを根拠に、丹後国丹後郡大野村[注釈 3]で生まれたとする説の方を誤伝として[注釈 4]尾張国葉栗郡大野村[注釈 5]で生まれた城主一族であるとしている[6]。大野氏はもとは石清水祠官(しかん)の家で、神職を失って美濃国に流れてきた大野治定(伊賀守)が、織田信長の命令で同地に大野城を築いて居城とした。この治定は祖父にあたり、定長はその子で、大野城を継いだ治久は定長の弟(治長から見れば叔父)にあたる。『南路志』によれば、尾張葉栗郡の同郷の毛利勝永とは従兄弟の関係にあったという。

大蔵卿局および治長らは、小谷城以来、ずっと淀殿に付き従っていたと考えられるが、天正11年(1583年)の越前北ノ庄城の落城後はその淀殿の所在すらよく分からず、大野一族がどのような顛末をたどったのかは不明である。一方で、この間、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に、本家の大野治久は豊臣秀吉に逆らって失領し、大野城を失っている。

前歴は不詳といって差し支えなく、治長が秀吉の馬廻衆となった時期もよくわからないが、(織田信雄、または佐治信方織田長益のもとにいたらしい)淀殿が秀吉の庇護下に入った時期に関係があると思われるので、淀殿が秀吉の側室となった天正16年(1588年)頃か、もしくはその少し前と推測される。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:41 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef