大野城_(筑前国)
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logo大野城
福岡県
百間石垣(高さ8m×基底部幅9m×長さ180m)
城郭構造古代山城
築城主大和朝廷
築城年天智天皇4年(665年
遺構土塁・石塁・水門・城門・建物跡・水溜め
指定文化財国の特別史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度32分23.7秒 東経130度31分17.6秒 / 北緯33.539917度 東経130.521556度 / 33.539917; 130.521556 (大野城 (筑前国))座標: 北緯33度32分23.7秒 東経130度31分17.6秒 / 北緯33.539917度 東経130.521556度 / 33.539917; 130.521556 (大野城 (筑前国))
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大野城 (筑前国)

大野城(おおのじょう/おおののき)は、福岡県太宰府市大野城市糟屋郡宇美町にまたがる大城山(おおきやま)[1]に築かれた、日本古代山城。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「大野城跡」に指定されている[2]
概要

大野城は、大宰府政庁跡の北側背後に聳える、標高410メートルの四王寺山(大城山)[注 1]に所在する。山頂を中心に馬蹄形状の尾根から谷を廻る土塁石塁の外周城壁は、約6.8キロメートルである。そして、南側と北側の土塁が二重となり(城壁総長は8.4km)防備を固める。城域は東西約1.5キロメートル×南北約3キロメートルの、日本一の大規模な古代山城である[3]。城門は太宰府口城門など9か所が開く[注 2]。また、谷部では、浸透式で自然排水の百間石垣・水ノ手石垣などに加え、水口のある屯水石垣などが確認されている[4][5]

大野城市の名称はこの大野城に由来する[6]。2006年4月6日には、日本100名城(86番)に選定された。
調査・研究

発掘調査では、太宰府口城門が三期にわたって建て替えられている。また、北石垣城門は、入口前面に1メートルほどの段差を設けた懸門構造であり[注 3]、門柱の軸受け金具の出土は国内初の事例である[7]。そして、約70棟の建物跡が確認され、数棟で一群となり、主城原(しゅじょうばる)礎石群など、城内8か所に分布する。掘立柱建物と礎石建物があり、倉庫と考えられている総柱礎石建物が多数存在するが、築城期以降の建物とされている。出土遺物は、墨書土器軒丸瓦軒平瓦・炭化米などが出土している[8]

城跡の研究は、1926年(大正15年)、島田二郎が発表した「大野城址」を嚆矢とする[9]

考古学的研究は、1950年?1960年の鏡山猛の踏査研究[10]をもとに、1973年(昭和48年)から九州歴史資料館が発掘調査を行っている。発掘調査の成果は、福岡県教育委員会 編集/発行 『特別史跡 大野城跡 ・I?IV』、1976年?1991年、で報告されている[11]

平成15年7月、異常な豪雨で土砂災害が発生し、平成16年から6年間にわたり、約30か所で遺構関連復旧工事が施工された[12]

土塁の崩壊により、外郭線の全域の土塁基底部に列石が存在することが判明した。また、列石の前面で柱穴列が検出された[13]

九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[14]

1898年(明治31年)、高良山列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[注 4]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある大野城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[注 5]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[15]

関連の歴史

日本書紀』には、「・・・大野(おおの)と椽(き)、二城(ふたつのき)を築かしむ」と、記載する[注 6]。また、『続日本紀』に、「大宰府をして大野、基肄(きい)、鞠智(くくち)の、三城を繕治せしむ」と、記載された城である[注 7]

大野城は、白村江の戦い新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷日本)の防衛のために築いた古代山城である。665年天智天皇4年)、基肄城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されている。城郭の建設を担当したのは亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。また、大野城・基肄城とともに長門国にも亡命百済人が城を建設しているが、城の名称は記載されず、所在地も不明である[16]。そして、『続日本紀』の698年文武天皇2年)には、 大野城・基肄城・鞠智城の三城の修復記事が記載されている。

天智政権は白村江の敗戦以降、高句麗新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬?九州の北部?瀬戸内海?畿内と連携する防衛体制を整える。また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城基肄城と平野部の水城大堤小水城などで防備を固める。この原型は、百済泗?都城にあるとされている[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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