大野均
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大野 均生年月日 (1978-05-06) 1978年5月6日(43歳)
出身地 福島県郡山市[1]
身長.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1.92 m (6 ft 3+1⁄2 in)
体重105 kg (16 st 7 lb)
学校清陵情報高校
大学日本大学工学部
愛称キン、鉄人
ラグビーユニオンでの経歴

ポジションロック
アマチュア経歴
年チーム出場(得点)
1997-2001日本大学工学部()
シニア経歴
年チーム出場(得点)
2001-2020東芝234()
更新日:  2020年5月18日
スーパーラグビー
年チーム出場(得点)
2016-2017サンウルブズ14(0)
更新日:  2018年6月9日
代表
年チーム出場(得点)
2004-2016 日本98(65)
更新日:  2018年6月9日

大野 均(おおの ひとし、1978年5月6日 - )は、日本の元ラグビー選手。現在JAPAN RUGBY LEAGUE ONE東芝ブレイブルーパス東京のアンバサダーを務めている。目次

1 人物

2 主な経歴

3 エピソード

4 著作

5 出典

6 関連項目

7 外部リンク

人物

この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2021年4月)


ポジションはロック (LO)。東芝時代にはウイング(WTB)での出場経験もある*2004年に日本代表に初選出された時はWTBとしてだった。[2]

身長: 192 cm、体重: 105 kg

日本代表キャップは98で歴代トップ[3](2016年6月現在)。

ニックネームはキン。

トップリーグのベスト15にはロック (LO)部門で合計9回選出されている(歴代個人最多選出回数)。2009年度にはリーグのMVPに選出された。リーグ戦通算出場数は170(歴代2位)。

主な経歴

伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2020年6月)


1991年-1994年 郡山市立三穂田中学校

1994年-1997年 清陵情報高(野球部)

1997年-2001年 日本大学工学部*福島県郡山市

2001年-2020年 東芝ブレイブルーパス

東芝入団2年目の対サントリー戦(東日本社会人リーグ)でスタメンでデビュー。翌年トップリーグがスタート。そのシーズンの後半あたりからロックのレギュラーに定着。2005年にはセブンス代表に選出される。

日本代表には2004年から選出され5月16日の対韓国戦の後半20分リザーブから代表デビューを果たす。2006年のIRBパシフィック・ファイブ・ネイションズでは代表の主将を務めた。ラグビーワールドカップには2007年度2011年度2015年度に出場した。

2015年10月3日、37歳4ヵ月27日で96個目のキャップを獲得し、村田亙が保持していたそれまでの最年長キャップ獲得記録(37歳4ヵ月25日)を抜いた[4]

2015年12月にはスーパーラグビーの日本チームサンウルブズの2016年スコッドに入った[5]。2020年5月18日、チームを通して、現役引退を発表し、19年間に及んだ選手生活にピリオドを打った[6]。5月22日にオンラインで引退会見を行い、引退後は東芝の普及担当に就任した。[7]

2021年6月12日、静岡・エコパスタジアムで最多キャップ記念セレモニーが行われた[8]

2022年1月10日、出身地である郡山市は、郡山総合体育館に「大野均選手メモリアルコーナー」を設置した[9]
エピソード・福島県郡山市で酪農業を営む家庭の長男として誕生。生まれた時は4000gを越える大きな赤ん坊だった。子供の頃から祖父と牛乳の配達をしたり、仮死状態で生まれた仔牛を蘇生する等の手伝いを経験した。母親によると反抗期も無く頼み事をすれば何でもすぐやってくれる息子だったとの事。・小学校4年から父親がコーチを務める地元のスポーツ少年団で野球をはじめ中学、高校時代は野球部に所属した。ポジションは主に外野で、キャッチャーをやることもあった。高校2年時に所属していた県立清陵情報高が選抜大会初出場を果したが本人はベンチ外でチームは1回戦で敗退。チームでは常に補欠だった(バットに当たれば飛ぶが変化球に対応できなかった)がサイズには恵まれていたため秘密兵器的な存在だった。また東芝に入社した際同期で入社した野球部(東芝野球部は名門として知られる)のメンバーには甲子園優勝メンバーなどアマチュア時代からの有名選手がいて彼らを傍で見て緊張したという。[10][11]・中学1年生の頃、地域で担当していた方が高齢のため引退を希望しているという話を母が聞き新聞配達のアルバイトをやる事になり高校3年までの6年間続けた。地方のため家毎の間隔が広く坂もあり20件程だったが1日の配達には自転車で40-50分を要した。大雪で自転車が使えない事があったり、熱がある日であっても使命感で勤め通した。今でも新聞配達の夢を見る事があるという。・大学時代からいささか本人の意図に反してラグビー選手としてのキャリアがスタートする。地方リーグに所属するチームで推薦枠での入部者も無く当時は部員数20人にも満たないチームだったが先輩達が実験・実習等の合間に限られた人数でタックルなどに励む姿を見て憧れ、上下関係も無く練習後に楽しそうに話す雰囲気にも惹かれていった。また部員が少ないため、少々の痛みで練習を休むとチームに迷惑がかかるため少しぐらい痛くてもグラウンドに立つという、ラグビーに必要な根底のタフさが身についた。・大学4年時に招集された福島県選抜チームの高木コーチ(当時東芝府中コーチだった薫田真広と筑波大での同期)の計らいで東芝府中ラグビー部の練習に1日参加する事になる。しかしその練習の激しさに驚きさらに練習途中に激しさのあまり肩を亜脱臼してしまう。しかし折角福島から来て途中で外れるのは情けないと思い痛みにこらえて最後まで練習に参加し続けた。東芝に入社後に聞いた話では当日の練習がその年で1番激しいものだったという。薫田によればその日は意図して激しい練習を行ったが着ていたジャージがボロボロになるまで食らいついてくる大野の姿には将来性を感じ”素人同然”だったが大野の資質を見込んだ薫田は”3年でジャパン(日本代表)になれる”と大野に声を掛けチームに誘った。(実際ほぼその言葉通り東芝に入部後見事に2004年代表に初選出された。)既に地元企業から内定を貰い公務員になるための勉強もしていたが、ラグビー部の監督などに相談したり、福島県ラグビー協会からの説得もあり、東芝府中ラグビー部への入部を決断する。・東芝に入部した頃は不安しかなかったが、自分は一番チームで下手なので他人よりも練習するしかないと思いコーチの言う事は素直に全て聞き入れ実行したという。入部当時のチームは若干低迷期にあったが先輩達が休日も自主練習に誘ってくれた事が嬉しく共に切磋琢磨していった。東芝でのデビュー戦は2年目の2002年東日本社会人リーグでの当時2連覇中だった対サントリー戦。それまでリザーブに入る事もなかったがロックの先輩横山恒雄の怪我により大野に出番が回ってきた。・2003年開幕したトップリーグの初年度開幕節からリザーブでメンバー入りを果たし徐々にスタメンの座を勝ち取る。同シーズン第9節対NEC戦の試合中に誤って相手チームのセンター、ジョージ・コニアの手を踏んでしまい怒ったコニアはレフリーの笛の後に大野にタックルを見舞うが(ラグビーではラフプレーや危険なプレーに対する報復行為はさらに重く取られペナルティやカードの対象になる事もある)元来優しい性格の大野は手を踏んだ事を分かっていた為コニアに対してその場で謝罪した。


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