大野 一雄
1986年10月
誕生日1906年10月27日
出生地北海道函館市
死没年 (2010-06-01) 2010年6月1日(103歳没)
死没地神奈川県横浜市
国籍 日本
芸術分野舞踏家
教育日本体育会体操学校卒業
受賞第1回「ミケランジェロ・ アントニオーニ賞」ほか
ウェブサイト ⇒大野一雄舞踏研究所公式ウェブサイト
影響を受けた
芸術家ラ・アルヘンチーナ、マリー・ヴィグマン、石井漠、江口隆哉、土方巽、宮操子
影響を与えた
芸術家ピナ・バウシュ、リンゼイ・ケンプ、大野慶人、柿崎順一、笠井叡、丹下紘希、土方巽、ヨネヤマママコ、 細江英公
テンプレートを表示
大野 一雄(おおの かずお、1906年〈明治39年〉10月27日 - 2010年〈平成22年〉6月1日[1])は、日本の舞踏家[2]。モダンダンサー。マイム師、教育者。北海道函館市出身。 1906年10月27日、函館の弁天町
代表作」「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮」
経歴
1919年4月、旧制北海道庁立函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)に入学後、母方の秋田県の親戚白石家にあずけられる。運動神経は抜群であり、陸上部に所属して400メートルの秋田県記録を更新した。翌年、秋田県立大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)に編入学。函館中学校時代は同級生に亀井勝一郎や今日出海がいた。
1925年、大館中学校卒業。函館近村の泉沢尋常高等小学校で代用教員を1年間務める。
1926年、日本体育会体操学校(現・日本体育大学)入学。同年12月、徴兵令により札幌歩兵第25連隊入隊、1年4ヶ月の兵役に就いた。
1929年1月、スペイン舞踏の舞姫ラ・アルヘンティーナ来日。寄宿舎の寮長に同行した帝国劇場の三階席で公演を見て深い感銘を受け、舞踊家の道に進んだ[3]。
体育教師として関東学院中学部に就職。その後、横浜市の捜真女学校勤務する傍ら、1934年から「石井漠舞踊研究所」入門、ドイツ人舞踏家ハラルド・クロイツベルク
(英語版)に師事する。1936年、マリー・ウィグマンにノイエタンツを学んだ江口隆哉と宮操子舞踊研究所入門。
1938年、太平洋戦争で旭川で召集を受け、第35師団歩兵第221連隊に配属され、9年間、中国、ニューギニアで従軍、マノクワリで終戦、約1年間の捕虜生活のあと復員。 1946年、帰国(40歳)、江口隆哉・宮操子舞踊研究所にて稽古を再開。 1949年、江口隆哉・宮操子舞踊研究所から独立。横浜の自宅庭に大野一雄舞踊研究所を設立。東京神田共立講堂での第1回目現代舞踊公演で舞踊家としての活動を再開。この公演を21歳の米山 九日生(後に土方巽に変名)が見て「不思議な舞台に出会った。シミーズをつけた男がこぼれる程の抒情味を湛えて踊るのである。頻りに顎で空間を切りながら踊る、感動は長く尾を引いた」といった感想を述べる。及川廣信のマイム研究所では及川や安堂信也と共に指導。
戦後