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日本の政治家大達 茂雄おおだち しげお
参議院議員時代
生年月日1892年1月5日
出生地 日本島根県那賀郡浜田町
(現:浜田市)
没年月日 (1955-09-25) 1955年9月25日(63歳没)
死没地東京都文京区 東京大学医学部附属病院
出身校東京帝国大学法科大学政治学科
所属政党自由党
称号正三位[1]
勲一等旭日大綬章
勲一等瑞宝章
第70代文部大臣
内閣第5次吉田内閣
在任期間1953年5月21日 - 1954年12月10日
参議院議員
選挙区島根県選挙区
当選回数1回
在任期間1953年4月24日 - 1955年9月25日
第60代内務大臣
内閣小磯内閣
在任期間1944年7月22日 - 1945年4月7日
初代 東京都長官
在任期間1943年7月1日 - 1944年7月22日
初代昭南特別市市長
在任期間1942年3月7日 - 1943年7月1日
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大達 茂雄(おおだち しげお、1892年(明治25年)1月5日 - 1955年(昭和30年)9月25日)は、日本の内務官僚、政治家。内務大臣(小磯内閣)、文部大臣(第5次吉田内閣)。参議院議員(1期)。 島根県那賀郡浜田町(現・浜田市)に、酒造業・大達新作の次男として生まれる。浜田中学から一高に進み、1916年(大正5年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、内務省に入る。宮城県属[2]。 内務省では地方局財務課長を経て1932年(昭和7年)福井県知事となる。福井師範学校整理問題で県会と衝突し、それに対する内務省の扱いに不満を抱いて辞表を提出した。 1934年に満洲国に招かれて満洲国国務院総務庁法制処長、1936年同国務院総務庁長を歴任。しかし満洲国産業開発五ヵ年計画などを中心とした満洲の重化学工業化方針を巡って関東軍と対立、結局星野直樹などの経済官僚と入れ替わる形で辞任した[注釈 1]。しかし1937年には招請されて北支方面軍最高顧問となった。 1939年に平沼内閣が成立すると木戸幸一内務大臣の下で内務次官に就任。 大戦中の1942年(昭和17年)に昭南特別市長(同年3月7日 - 1943年7月8日[3])、陸軍司政長官(1942年3月17日発令[4])を務めた。 1943年(昭和18年)7月1日の東京都制施行により東京市と東京府が廃止され新たに東京都が設置されたのを受けて、大達は初代東京都長官に就任した。都長官としては学童疎開や建物疎開を推進、空襲から御真影を守ろうとして殉職する校長を懸念して各校の御真影までをも疎開させた。同年9月には上野動物園に対し戦時猛獣処分を命じたが、これが後に土家由岐雄のノンフィクション童話『かわいそうなぞう』の原案となった。翌1944年(昭和19年)には西武鉄道の堤康次郎と計って鉄道による糞尿輸送を実施している。 1944年7月に発足した小磯内閣に内務大臣として入閣。1945年4月鈴木内閣成立で辞任した。 戦後、小磯内閣で閣僚だった責任を問われて同年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部による逮捕命令者リスト(第四次逮捕者9名中の1人)に名を連ねる[5]。A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に勾留されたが、不起訴となり1947年8月に出所。それでも公職追放となった。1952年(昭和27年)に追放解除となると、翌1953年4月の第3回参院選に吉田自由党公認で島根選挙区から立候補し当選。同年5月に発足した第5次吉田内閣では組閣参謀となった緒方竹虎の強力な推薦により文部大臣に就任した。 文相在任中には教育方針を巡って教員と父母が保守派と進歩派に割れて対立した京都旭丘中学事件では、学校を封鎖した進歩派を「暴力革命」と非難、これを契機に日教組の影響力を抑制することに全力を注ぎ、いわゆる教育二法を成立させた。
来歴
生い立ち
福井県知事福井県知事時代
満洲国へ
内務次官
昭南特別市長
東京都長官
内務大臣
戦後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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