大運河
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「大運河」はこの項目へ転送されています。ベネツィアの運河については「カナル・グランデ」を、そのほかの項目については「大運河 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

京杭大運河

各種表記
繁体字:京杭大運河
簡体字:京杭大?河
?音:J?ng Hang Da Yunhe
発音:ジンハン ダーユンホー
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京杭大運河(けいこうだいうんが)は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河である。途中で、黄河長江を横断している。戦国時代より部分的には開削されてきたが、文帝煬帝がこれを整備した。完成は610年。運河建設は人民に負担を強いて隋末の反乱の原因となったが、運河によってなどの穀物などの各種の戦略的原材料が経済の中心地江南と政治の中心地華北の間で輸送され(漕運[1]、さらに軍事上の要地?郡にある大都(後の北京)が結合して、中国統一の基盤が整備された。この運河は、その後の歴代王朝でも大いに活用され、現在も中国の大動脈として利用されている。2014年の第38回世界遺産委員会シルクロードなどとともに世界遺産リストに登録された。
建造の背景

西晋の滅亡以後、中国は300年近い年月にわたって南北に分裂していた。南北がなかなか統一されない原因として、淮水長江の間に網の目状に走る小河川が進軍の足を鈍らせることにあり、曹操が敗北した赤壁の戦い苻堅が敗北した?水の戦いなども、北の騎馬軍団が南の水軍に敗れたという側面がある。
煬帝の開削(1)?(4)が大運河。青は文帝が建設した大運河、赤は煬帝が建設した大運河。 (1)=永済渠 (2)=通済渠 (3)=山陽?(?溝) (4)=江南河

北周から禅譲を受けてを建国した楊堅(文帝)は、この問題を解決するために587年に淮水と長江を結ぶ?溝(かんこう)[注 1]を開鑿し、589年を滅ぼして、南北を統一した。

604年に2代皇帝煬帝が即位し、翌年より再び大運河の工事が始まる。まず初めに黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうさいきょ)を掘り、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠(えいさいきょ)、長江から杭州へと至る江南河を結び、河北から浙江へとつながる。大運河の完成は610年のことで、その総延長は2500キロメートルを越える。

第一の通済渠の工事には100万人の民衆が動員され、女性までも徴発されて5か月で完成した。これを後世後の人は暴政と非難した。さらに、この運河を竜船(皇帝専用の船)に乗った煬帝が遊覧し、自身が好んだ江南への行幸にも使ったことから、「自らの好みのために民衆を徴発した」などとも言われるようになる。

大運河は一から全てを開削したわけではなく、既存の小運河を連結した部分がかなりある。また大運河の建造は南北の統一を確かなものとし、江南の物産を河北にもたらした[2]。永済渠建設の目的は高句麗遠征であった。
開削の効果

大運河が開通したことによって、経済面で優越していた南が政治・文化の中心地である北と連結され、中国全体の流通が増大した。その社会的な影響は計り知れない。大運河の建設に多大な労働力を動員して民衆を苦しめたことを、隋朝打倒の大義名分の一つとして建国した、唐王朝こそが大運河からの最大の受益者となった。近隣地域の生産力のみでは支えきれなくなった首都長安洛陽の食糧事情を安定させることができたのも、大運河による物資の運送能力によるところが大きかったのである。『清明上河図』(一部)

開封は永済渠と通済渠の結節点として中国の南北を結び、黄河によって東西とも結ばれていたので経済的な重要性が高まり、五代十国時代より北宋の首都として繁栄した。開封城では城内を運河が貫通しており、長安のような大規模な直交道路は姿を消したが、入り組んだ大小の街路には各種の飲食店や酒店などが軒を連ねるなど、その商業は隆盛をきわめた。当時の運河周辺の都市の繁栄の様子は『清明上河図』(張択端画)に活き活きと描かれている。
衰退と新経路による開削天津の海河の起点。衛河下流を利用して黄河と天津を結ぶ南運河と、温楡河を利用して天津から北京へと結ぶ北運河(いずれも京杭大運河の一部をなす)がここで合流し、海河となって渤海に流れる

しかしが華北を占領して南宋と対立するようになると、大運河の流通も激減し、整備もされなくなってさびれてしまった。その後、が中国大陸を征服すると、江南から首都の大都北京)への近道として済州河と会通河が開かれた。つまり、いったん開封を経由して北京に至るそれまでのルートが不便だったため、杭州から北へ進み天津へとつながるルートが開かれたのである。元代には海運が発達し対外貿易を主にしていたので、従来に比べると大運河の重要度は落ちていたものの、この新しいルートは国内における北京の重要性を高めることになった。

明代に入り、さらに永楽帝によって南京から北京に遷都されると、再び大運河の重要度が増した。明は海禁策(貿易禁止、海上交通の禁止)を採っていたため再び内陸水運が見直され、また新たに運河が開鑿された。杭州から北へ進み、淮安徐州済寧滄州→天津とつながる運河ができて、これが現在の大運河となった。海禁策を採用していた明・においては、大運河を維持することが国都にとって死活的な重要性を意味しており、南河総督漕運総督など大運河を管轄する重要な役職や役所が置かれた。


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