大連港
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大連港
空から見た大連港
所在地
中華人民共和国
所在地遼寧省大連市
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度55分44秒 東経121度39分17秒 / 北緯38.92889度 東経121.65472度 / 38.92889; 121.65472座標: 北緯38度55分44秒 東経121度39分17秒 / 北緯38.92889度 東経121.65472度 / 38.92889; 121.65472
詳細
管理者大連港集団 / 大連港股?有限公司
面積99.5万平方メートル[1]
係留施設数13バース[1]
水深9.8?16.0メートル[1]
接岸10000TEU級[1]
統計
統計年度2012年
貨物取扱量3億0300万トン[2]
コンテナ数806万個(TEU)[3]
公式サイト ⇒大?港集?[リンク切れ]
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集の仕方はTemplate:Infobox 港をごらんください。

大連港(だいれんこう)は中国遼寧省大連市遼東半島の先端近くにある中国東北部最大規模の国際貿易港。貨物取扱量は3億0300万トン(世界8位)[2]、コンテナ輸送量は977万個(世界16位)[4]
概要

大連港は、不凍港で、深い海域(港の最大水深は33m)に囲まれている天然の良港で、中国南北の水陸の交通運輸の中枢と国際貿易および国内の物資の交流に重要な役割を果たす港湾の1つである。大連港は、大連湾(旧港区)と大窯湾(新港区)に分けられる。160余の国や地域と300余の港と経済貿易の航運関係を築くまでとなった。大連港における取扱量は1980年の3200数万tから、2015年まで4億数tに迅速に増大している。大連市の中心部および大連経済技術開発区にはほかに鮎魚湾石油埠頭、大連湾漁港、和尚島石炭港、北良食糧埠頭の港が連なっている。
施設

大連コンテナターミナル(Dalian Container Terminal Co Ltd、DCT、大?集装箱??有限公司) - 74万平メートル
[1]

大連港コンテナターミナル(Dalian Port Container Terminal Limited、DPCM、大?港湾集装箱??有限公司)- 25.5万平メートル[1]

大連国際コンテナターミナル(Dalian International Container Terminals Limited、DICT、大?国?集装箱??有限公司) [1]

運営旧満鉄大連埠頭事務所屋上より眺めた埠頭待合所(2009年6月)

大連港集団が経営管理する。資産と業務の大半は香港証券取引所に上場の子会社である大連港股?有限公司が担っている。
旅客輸送大連港に停泊する天津港行き中国海運集団の普陀島号

天津煙台威海上海間および長海県の島々への旅客船航路

韓国仁川港へのフェリー航路

歴史

1860年、英仏総合艦隊が大連湾に一時停泊した7月頃、現在の大連港付近は「泥窪(chingniwa)」と称される国の一漁村であった。

1898年、「「旅順大連(湾)租借に関する条約」締結後、ロシア帝国より大連を租借する。ロシア帝国及び清国軍艦の特別設備を除き、港の一部が外国貿易の開港場とされ、外国商船の入港が認められる。

1899年、ロシア帝国皇帝の勅令(同年7月30日)をもって、ダルニー(後の大連)と命名した一都市の建設及び外国の商船に等しく開放する(自由貿易港)とした。これにより港の開発が始まり、1902年に開港した。1905年迄に第2埠頭及び甲埠頭が完成。この時すでに第2埠頭には東清鉄道により線路が敷設されていた為、日露戦争時には日本が兵站基地として使用する。

1905年日露講和条約により日本の租借地関東州となり、港及び施設等の権利が移転交附される。日満連絡船(大阪-大連航路)が開設。

1907年南満州鉄道が設立、大連港の継続した築港と運営が委託される。南満州鉄道には、工事半ばであったロシア帝国の計画を概ね踏襲し、湾内を3区として主要となる区に西北防波堤と東防波堤を建造、埠頭を追加建造する計画が委ねられる。

1920年、満鉄により第3埠頭を建造される。

1921年、防波堤及び埠頭構造工事、岸壁及び改良工事、海面埋立工事が終了。

1923年、第2埠頭を改修、30万t級の船が入港できるように拡張。

大連第二埠頭船客待合所1924年、大連第二埠頭船客待合所竣工。2Fが船舶待合所で、1Fに鉄道のプラットホームがあり満鉄線に乗継ことができた。しかし、実際にはバスなどにより大連駅と連絡することが多かった。翌年には、入口が半円形にされ、そのまま路面電車に乗り換えることもできるようになった。現在も客船の待合施設として使用されている。

1926年、大連埠頭事務所竣工。現在も大連港務局社屋として使用されており、屋上のみ一般公開されている。

1932年、満州貿易の大連集中が進み、満州国貿易総額の約75%を大連港が担うまでになる。

1942年、日満連絡船は、国家総動員法により船舶運営会が設立され、大阪商船より移管された。

1945年8月21日、ソ連により接収され中ソ友好同盟条約に基づき1951年2月まで管理したのち、中国に引き渡す。


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