大谷智子
[Wikipedia|▼Menu]

大谷 智子
(智子女王)
久邇宮家、大谷家
1948年
続柄久邇宮邦彦王第3王女子

全名大谷 智子(おおたに さとこ)
身位女王 →(降嫁
敬称殿下 →(降嫁)
お印[1]
出生1906年明治39年) 9月1日
大日本帝国東京府東京市麻布区
(現・東京都港区六本木久邇宮
死去 (1989-11-15) 1989年11月15日(83歳没)
日本
配偶者大谷光暢東本願寺第24代法主
子女大谷光紹
大谷暢順
大谷暢顯
大谷暢道
大賀美都子
夏川須美子
父親久邇宮邦彦王久邇宮朝彦親王の第3王子
母親邦彦王妃俔子島津忠義公爵の娘)
栄典勲二等宝冠章

役職東本願寺裏方
学校法人光華女子学園総裁
テンプレートを表示

如智禅尼
1906年9月1日 - 1989年11月15日
法名如智禅尼
院号歌徳院
宗派浄土真宗
寺院東本願寺
テンプレートを表示

大谷 智子(おおたに さとこ、1906年明治39年〉9月1日 - 1989年平成元年〉11月15日)は、日本の元皇族華族久邇宮邦彦王同妃俔子の第3王女子。東本願寺第24世法主大谷光暢伯爵夫人。東本願寺裏方。旧名は、智子女王(さとこじょおう)。皇籍離脱前の身位女王で、皇室典範における敬称殿下

香淳皇后であり、第125代天皇・明仁上皇)の叔母、第126代天皇・徳仁今上天皇)の大叔母にあたる。
生涯
皇族時代

1906年(明治39年) 9月1日午後7時30分、久邇宮邦彦王同妃俔子の第3王女子(第5子)として誕生[2]。御七夜の9月7日に「智子」と命名された[3]

久邇宮家は兄弟も多く、財政的にゆとりがある状況ではなかった[4]。こうした中、長姉・良子女王と次姉・信子女王は年齢も近く、何事も一緒に過ごした[4]。信子女王と智子女王は、良子女王に心酔し、姉宮の一挙手一投足を真似るほどだった[5]

二人の姉宮である良子女王信子女王とともに教育を受けた[4]1918年大正7年)2月、良子女王が皇太子裕仁親王(当時)のに内定し、以降は久邇宮邸内に設けられた学問所で教育を受けることになると、信子・智子の妹宮や学友も共に学んだ[6]。しかし、婚約を巡って宮中某重大事件が起き、この時期のことを智子女王は後年、子供心に「家の中が暗く沈んでいたように思います」と回想している[7]

浄土真宗の宗祖親鸞の末裔で東本願寺の住職世襲した大谷家伯爵家)の法嗣(法主後継者)・大谷光暢と婚約し12歳で京都へ移る。京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)を卒業。1924年大正13年)5月3日、大谷光暢に降嫁した[8]東本願寺では、皇族女子と新法主の婚礼を盛大に祝賀し、その様子は写真集『久邇宮智子女王殿下 東本願寺新法主台下 御慶事画報』として刊行されている[9]
(東)本願寺の裏方として1924年頃撮影、新婚の大谷夫妻

降嫁の翌年、光暢の父大谷光演が巨額の負債を抱え、限定相続によって法主を譲職したため、急遽1925年(大正14年)10月に光暢が法主となったことに伴い、智子も法主夫人すなわち「お裏方」となった[10]。同月には、大谷夫人法話会の会長として女性としてのあるべき姿を説いたが、内容は時代の制約から良妻賢母像を求めるものであり、現代の価値観・視点からは批判もある[11]

1938年(昭和13年)1月13日から夫の光暢が中国の華北・華中を慰問すると、智子も同月31日に長崎港を発ってから同地を訪問した[12][13]。夫妻の慰問と時期を同じくして、現地では日中親善の機運が高まっていた[12]。「皇軍傷病兵の慰問と日華仏教婦人会の連携」を目的とし、訪問ルートは、光暢の行った次に訪れるよう計画されていた[13]。訪問日程に合わせ2月12日天津で、2月15日北平(現:北京)で、日華仏教婦人会の創立記念大会が催されている[13][注釈 1]

智子は、天津在住の実業家で信仰心の篤い平林千賀子の仲介で[14]、北寧鉄路局長だった陳覚生の未亡人である陳鮑と面会し、鮑宸ヘ夫の遺産で仏教精神の女学校を建設し、東本願寺に運営をゆだねたいと申し出た[12]。こうして、同年9月には北京に北京覚生女子中等学校が創立され、智子は同校の名誉校長に就任した[12]。日中提携の、中国人女子の高等教育学校に、日本の元皇族が関与していることは、現地でも大きな話題となった[15]1943年(昭和18年)10月、光暢と知子は満州国及び華北における開教地巡回を行った際、同月20日に智子は名誉校長として初めて覚生女子中を訪問し、日華提携の先駆けである同校に大きな期待を寄せた[16]

中国に設置された西欧のキリスト教系学校が宗教儀式に偏った文化的侵略の側面があったため、西洋式に変わる日本・中国式教育の覚生女子中は、年々生徒数が増加していたことからも現地の中国人にも大きな期待を寄せられていたと考えられている[17]。幼稚園や日本語学校の併設など、徐々に規模が拡大していった[18]。なお覚生女子中は、日本の敗戦後に廃校になっている[12]

また、鮑宸ニの会談を機に、智子は、京都にも仏教精神に基づく女学校を建設する意欲を持ち、翌1939年昭和14年)7月に学校法人光華女子学園の設立を文部省に届け出た[12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:39 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef