大谷晋二郎
[Wikipedia|▼Menu]

大谷 晋二郎

プロフィール
リングネーム大谷 晋二郎
本名大谷 晋二郎
ニックネーム炎の戦士
ハッスルあちち
身長181cm
体重97kg
誕生日 (1972-07-21) 1972年7月21日(51歳)
出身地山口県山口市
所属プロレスリングZERO1
スポーツ歴レスリング
トレーナーアニマル浜口
馳浩
佐々木健介
山本小鉄
橋本真也
大剛鉄之助
デビュー1992年6月25日
テンプレートを表示

大谷 晋二郎(おおたに しんじろう、1972年7月21日 - )は、日本男性プロレスラー山口県山口市出身。血液型A型。
来歴
幼少期・学生時代

幼少期の大谷にとって、プロレス=新日本プロレスであった。新日が故郷の山口県に来るのは年に2回しかなく、その2回を心待ちにしていた。中学時代か高校時代に、新日の試合で汚いヤジを飛ばしていた客を外に連れ出し、「プロレスをバカにするなら出て行ってくれ!」と怒りをあらわにしたことがある。それ以来、心無いヤジを飛ばした客を叱る観客として新日の営業から認知され、「おう、来たな!頼むぞ!」と中村祥之に叱り役として期待する声を掛けられたこともあった。新日でも好きなレスラーは木村健悟であった。藤波辰爾の方が木村より人気であった中、限定250着ずつの限定販売であった藤波と木村のIWGPタッグ王座奪取記念ジャンパーの内木村の方を応募し、抽選に当選した。ある時、スーパーののぼりを盗んで布を改造して新日本プロレスを応援するのぼりに作り変えた。同じく追っかけ時代、ホテルのフロントに侵入して警備員につまみ出されようとする中、アントニオ猪木に声を掛けたら猪木に微笑み返してもらった。猪木は警備員に大谷を解放するように指示し、大谷が持っていた闘魂ハチマキにサインをした。大谷はその時、猪木に新日本プロレスに入門することを誓った[1]
新日本プロレス時代

山口県鴻城高等学校時代にレスリングで国体・インターハイともにベスト16の実績を残した。卒業後は、アニマル浜口ジムに入門。1992年2月に新日本プロレスに入門する。大谷は両親に猛反対されたため、貯金したお年玉5、6万円を持って家出同然の形で上京した。母は最後まで猛反対であったが父は後に軟化して3年だけ仕送りを送ることにした。不動産店が強気であった当時は保証人を立てるつもりが無かった大谷にとって住居探しも一苦労であり、1軒だけ家賃2万4000円で4畳半のアパートが見つかったという。そのアパートは共同便所から大便の放出音が丸聞こえであり、静かに歩かないと畳が抜けるなど、劣悪そのものの環境であった。布団も無いので安い毛布を買い、拾った雑誌に手拭いを巻いて枕にした。アニマル浜口ジムに入門しようと思ったのは、当時それしかプロレス道場を知らなかったためである。アニマル浜口 (山口県の隣県である島根県の出身。) と面接を行い、途中で何も口を挟んでもらえなくなったので入門の見込みが無くなったと思い話を切り上げようとしたが、浜口から「何時間かかってもいいから話しなさい」と言われ、最後は感涙しながら話した。大谷は後に、一人で上京して心細かった自分が誰かに話を聞いてほしかったのを、浜口は察したのだろうと振り返っている。浜口からの紹介で酒屋のアルバイトを行い、アルバイトの度に大量の賄いで腹を満たした。同年6月25日の福島市体育館にて山本広吉(現・天山広吉)戦でデビューを果たした[1]

デビュー前、大谷の父は入門に大反対していた母と妹の3人で、九州巡業の際に応援に来てくれた。入門後に電話をかけてもそっけない返事しかくれなかった母は最初会場でそっぽを向いていたが、メインイベントで先輩のガウンを受け取って控室に戻る時、母は涙をこらえながら拍手をしていた。それ以来実家にいる母に電話をすると、母の口調は自身を心配するものに変わった[1]

大谷の若手時代の新日本では酒は絶対に断れず、山本小鉄は「練習後にビールを飲んで身体を大きくしろ!」とビールをプロテイン代わりと考えていた。といっても、新日本の新弟子時代は雑用に追われていたためあまり飲んだ記憶が無く、巡業に行ったらコインランドリーを探し回って洗濯をしていた。時には夜中に民家に行って洗濯機を貸してもらったり、場合によってはホテルのボイラー室を開けてもらって洗濯物を乾燥させた。新弟子当時は洗濯機が全自動ではなく洗濯と脱水が分かれた二層式であったため、洗濯中も目が離せなかった。洗濯物が盗まれたら大変なので若手2人が交代で洗濯物を見張るのが常であった。待っている間ボロボロになった4週間遅れの『週刊少年ジャンプ』を読んだのは本人の思い出である。前述の通りプロレス界への入り口となってくれた浜口は大谷に目を掛けており、「プロレス界の宝」とまで期待していた。浜口からは日記帳を渡され、どんなに疲れていても毎日一言で良いので記入するように指導された。その日記帳については「殆ど先輩の悪口ばっかり」と後に大谷本人が2019年のインタビューで苦笑していた。若手時代は橋本真也の付き人を2年間務めた。2019年に行われた玉袋筋太郎との対談では付き人時代の苦労を玉袋に「懲役20年」と喩えられ、労をねぎらわれた。猪木は、新弟子にとって封建時代における天皇のような存在なので、若手時代は自分から口を聞くことも許されなかった[1]

デビュー間もない頃から、大谷も伸びのあるドロップキックとキレのあるジャーマン・スープレックスと十八番である顔面ウォッシュ、そして何よりも先輩レスラーに臆することなく向かっていき、実力では全く歯が立たない大先輩の獣神サンダー・ライガーにもケンカ腰で向かっていく姿勢を見せ、徐々に注目を集める。

1997年には第5代のジュニア7冠を獲得し、同時にIWGPジュニア初戴冠を果たした。

2000年に海外遠征をし、カナダカルガリーで肉体改造後、オールスタープロ認定インターコンチネンタル王座を獲得し、ヘビー級タイトル初戴冠を果たした。

2001年の帰国直後はヘビー級に本格的に転向、凱旋試合となった東京ドーム大会ではカルガリーで習得したコブラホールドで獣神サンダー・ライガーを失神させ、勝利を収めた。以降、大谷は武藤敬司と行動を共にするが、同年すぐに新日本を離脱し橋本、高岩竜一と共にZERO-ONEを旗揚げ(旗揚げ戦は村上一成に敗北した。)。2019年の玉袋筋太郎との対談では「海外遠征中で自分が日本にいなかった中、橋本さんが『大谷も参戦することが決定事項になっている』と自分の知らないところで記者に触れ回った」と、これが愛着のある新日を9年で離れた理由だと明かした。自分の名前を勝手に使った橋本からは帰国後に詫びを入れてもらったが、その際に一番参加してほしいレスラーこそが大谷だと告げられ、その殺し文句に大谷は感激した。橋本は、もし新日でやり残したことがあるならZERO-ONEの移籍は撤回してもよいと、あくまで大谷の意思を尊重したが、大谷は新日を解雇されて孤独だった橋本を案じて橋本と行動を共にすることとした。新日を離れる際に会社と話を付けたが、長州からは大谷が新日を離れる際にプロレス界は狭い世界だから、新日を離れたとしても交流の扉を閉ざさないようにすべきだと助言された[1]

同年10月にNOAHのGHCタッグトーナメントに大森隆男とのタッグで参戦するも2回戦で三沢光晴組に敗北。ZERO-ONEでは元FMW田中将斗と共に「炎武連夢(エンブレム)」を結成し、2002年にはプロレス大賞の最優秀タッグ賞を受賞した。同年には田中とのタッグでROHへも参戦している。また、年に一度「火祭り」リーグ戦を主催している。
ZERO1-MAX時代

2005年にはZERO1-MAXを発足、代表となり「一所懸命」(「一生懸命」とは異なる)を社是として掲げる。

ZERO1-MAXとDSEが共に興業を展開するハッスルにも参加。ハッスル軍に所属し、当初は大谷晋二郎としての参加であったが、キャプテンこと小川直也から「ハッスルあちち」と命名される。初めは大谷も戸惑いを見せたが、その後は大谷本人もいたくお気に入りでリング上で自ら「あちち?」と叫びながら技をかける様子も見られる。

ハッスル軍から寝返ったモンスターKこと川田利明に「お前巷では江頭2:50って言われてる」と言われていたことから、2005年12月25日のハッスルハウス・クリスマススペシャルに於いて大谷はサプライズゲストで登場した江頭と初対面を果たした。

その後、大谷は2007年のハッスルシリーズで高田総統によって洗脳され、高田モンスター軍に転向。以降は「ファイヤーモンスターACHICHI」のリングネームで戦っている。そして「ハッスル24」でインリン様のイン乳をTAJIRIから奪ってそれを飲んだため、高田モンスター軍の大谷晋二郎となっている。

2006年1月4日、かつてのライバルである金本浩二にシングルで圧勝。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:131 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef