大谷光勝(嚴如[1])
文化14年3月7日 - 明治27年1月15日
1817年4月22日 - 1894年1月15日
上段・旧暦(寛政暦) 下段・グレゴリオ暦
幼名豫丸(かねまる)
法名逹住⇒嚴如(ごんにょ)
号愚皐(ぐこう)
院号霊心院⇒眞無量院
諱朗澄⇒光勝
尊称厳如上人
宗旨浄土真宗
宗派真宗大谷派
廟大谷祖廟
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大谷 光勝(おおたに こうしょう)は、江戸時代後期から明治時代にかけての浄土真宗の僧。法名は、「嚴如[1]」(ごんにょ)。東本願寺第二十一代法主[2] 。真宗大谷派管長。子に四男・大谷光瑩、九男・大谷勝信、次女(水谷川忠起の妻)、六女・梭子(おさこ。岩倉具経の妻)ら。 本ページでは、年齢は、数え年。日付は、暦の正確性、著作との整合を保つ為、天保14年12月29日(1844年2月17日[3] )までは、寛政暦表示。天保15年1月1日(1844年2月18日)から明治5年12月2日(1872年12月31日)までは、天保暦表示。明治6年1月1日(1873年1月1日)からは、グレゴリオ暦表示とする(誕生年月日を除く)。また本山は、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。 奥野研寿『厳如上人御一代記
生涯
文化14年3月7日(1817年4月22日[3] )、東本願寺第二十代 達如の次男として誕生。近衛忠煕の猶子となる。
文政6年(1823年)、東本願寺、両堂宇を焼失する。
文政7年(1824年)、東本願寺、仮堂宇を立てる。
文政11年(1828年)3月18日、得度する。院号を「霊心院」、法名を「逹住」、諱を「朗澄」と名乗る。長浜別院 大通寺と姫路別院本徳寺の住職を兼職する。
天保12年(1841年)4月6日、法嗣(法主後継者)である長兄・寶如が死去。
同年12月10日、寶如の死去により法嗣となる。法名を「嚴如[1]」と改める。
弘化3年5月23日(1846年)父・達如が隠退により、第二十一代法主を継承する。
嘉永元年(1848年)12月16日 には、伏見宮邦家親王の四女・嘉枝宮和子女王を室に迎える。
元治元年(1864年)、禁門の変により仮堂宇が消失する。
明治元年(1868年)、近代に入ると、親密であった東本願寺と江戸幕府との関係を払拭し、明治新政府との関係改善を図るため、勤皇の立場を明確にする。そのため、北陸や東海地方へ巡教・勧募し、軍事費1万両・米4千俵を政府に献上する。
明治2年(1869年)、政府の北海道開拓事業を請け負うことを決定する。
明治3年(1870年)、法嗣である第5子(四男)・現如(大谷光瑩)を北海道に派遣した。(⇒詳しくは「本願寺道路」の項を参照)
明治5年(1872年)3月、華族に列せられる[4]。
同年9月、名字必称となり「大谷」の名字(姓)を用いる。
明治12年(1879年)、焼失した東本願寺の両堂宇の再建を発願し、再建工事の着工を表明する。
同年、大谷英麿と大谷温唐、東本願寺派関係の僧侶数名と共に慶應義塾入塾。
明治14年(1881年)、公式の宗派名が「真宗大谷派」と定まる[5]。
明治22年9月14日(1889年)、現如に法主を譲り退隠する。法在職期間は、43年。院号を「眞無量院」とする。
明治27年1月15日(1894年)78歳にて死去。
栄典・授章・授賞
位階
1884年(明治17年)9月20日 - 従三位[6]
1889年(明治22年)9月28日 - 従二位[7]
1894年(明治27年)1月15日 - 正二位[8]
1943年(昭和18年)4月9日 - 贈従一位[9]
脚注^ a b c 嚴如…旧字体が正式表記。「厳如」と新字体で表記する場合もある。
^ 正式には「本願寺」。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第二十一代法主」と表記。
^ a b グレゴリオ暦。
^ 奥野研寿『厳如上人御一代記』P.42 - 43。
^ 柏原祐泉『近代大谷派の教団』真宗大谷派宗務所出版部、1986年、45頁。
^ 『官報』第372号「叙任」1884年9月22日。
^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
^ 『官報』第3162号「叙任及辞令」1894年1月16日。
^ 『官報』第4871号「叙任及辞令」1943年4月10日。
参考文献
表
話
本願寺寺基の移転と分立
東西分立前
(本願寺の歴史)
大谷廟堂 1272-1295(1321) → (大谷影堂)1295-1321 → 大谷本願寺1321 - 1465 ⇒ 山科本願寺1483 - 1532 ⇒ 石山本願寺(大坂本願寺)1532 - 1580 ⇒ 鷺森本願寺1581 - 1583 ⇒ 貝塚本願寺1583 - 1585 ⇒ 天満本願寺1585 - 1591 ⇒ 本願寺(堀川六条)1591 - (1603) → (1603本願寺の東西分立) ?