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生誕1876年5月1日
日本・愛知県中島郡三宅村
(現・稲沢市平和町)
死没 (1941-02-05) 1941年2月5日(64歳没)
中華民国・広東省
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1897年 - 1941年
最終階級 海軍大将
墓所青山霊園
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大角 岑生(おおすみ みねお、1876年(明治9年)5月1日 - 1941年(昭和16年)2月5日)は、大正から昭和にかけての日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍大将。男爵。位階および勲等、軍功は正二位・勲一等・功五級。
愛知県出身で本籍は高知県。自邸は東京市芝区高輪下町にあった[1]。 愛知県中島郡三宅村(現・稲沢市平和町)で、農業・大角藤平の長男として生まれる[2]。幼名は親一[2]。 愛知一中(現・愛知県立旭丘高等学校)より攻玉社を経て海軍兵学校に入校。 明治30年(1897年)24期を3位の成績で卒業。同期の次席は山本英輔大将。 「比叡」での遠洋航海を終えて「厳島」・「八島」・「千代田」・「吾妻」に乗組。中尉に進級してから「天龍」・横須賀海兵団・「浅間」で分隊長を歴任した。 明治35年(1902年)1月に「済遠」航海長に任じられ、日露戦争を迎えた。 開戦3か月目の明治37年(1904年)5月に「松島」航海長に転任するが、その直前の第3次旅順口閉塞作戦に際し、「釜山丸」の沈船命令を受ける。しかし出撃した「釜山丸」はエンジンが故障し、船団から脱落した。初志貫徹を叫ぶ乗組員を説得し、大角は「釜山丸」を引き返させ、適切な判断と後に評価された。 「松島」・「満洲丸」航海長を歴任し、日本海海戦後の明治38年(1905年)8月に兵学校教官、翌年1月に海軍大学校甲種学生に転じ、航海術の指導および研修に励んだが、大角の現場勤務は大正2年度の、「筑波」副長、6年度の「朝日」艦長、12年度の第3戦隊司令官、昭和3年度の第2艦隊司令長官の合計4年間に過ぎない。海軍生活のほとんどを軍政官として過ごすことになる。 明治40年(1907年)12月に海軍省軍務局に呼ばれ、軍政官の第一歩を踏み出す。 明治42年(1909年)より2年間ドイツに駐在し、帰国とともに中佐に進級し、東郷平八郎元帥の副官となる。1年近く東郷の側近として修行し、「筑波」副長を経て再び軍務局に戻る。 大正3年(1914年)から6年(1917年)までの3年間、シーメンス事件を処理した八代六郎、八八艦隊計画を実行に移した加藤友三郎の両大臣の側近となった。 しかし加藤が自ら推進した八八艦隊計画を捨ててワシントン軍縮条約受諾を決意した際、大角はフランス大使館附武官として加藤のもとから離れていたため、何も加藤から学ぶことはできなかった。 大正7年(1918年)から2年間、フランスに滞在した。ジュネーヴに本部を置く国際連盟に最も近く、連盟の状況をいち早く把握できる重要なポストである。大角はパリ講和会議に随員として列席しており、日本の南洋諸島獲得が承認されたその現場にいた。 大正9年(1920年)に少将へ進級し、翌年7月に帰国した。 しばらく無任所であったが、大正11年(1922年)5月、軍務局長、12年(1923年)12月、第3戦隊司令官、14年(1925年)4月、海軍次官、昭和3年(1928年)12月、第二艦隊司令長官と、連合艦隊・海軍省の重要ポストを交互に経験した。 次官進級の直前に中将へ進級している。次官として大角が補佐した大臣は財部彪大将だった。大角は軍縮条約にまったく関与していないため、条約派と艦隊派の対立には関心がなく、次官時代はワシントン条約受諾はやむを得ないとする空気があったため、大角自身も問題にしていなかった。 昭和4年(1929年)の定期異動で横須賀鎮守府司令長官に任命され、2年間勤めた。 この間、昭和6年(1931年)4月に山本英輔と同時に大将に進級した。 昭和6年(1931年)12月、第2次若槻内閣が総辞職し、前任の安保清種が慣例に従って横須賀鎮守府長官の大角を犬養内閣の海軍大臣に指名した。 艦隊派と条約派の抗争が続き、強硬な条約派だった軍令部長・谷口尚真の更迭を決めた矢先に、安保は大臣を大角に譲らざるを得なくなり、後任人事を託した。 大角は、陸軍参謀総長に閑院宮載仁親王元帥が就いていることを勘案して、伏見宮博恭王大将を軍令部長に推した(陸軍が皇族総長の威光で海軍を圧迫する可能性を封じる意図もあったという。昭和7年(1932年)に伏見宮は元帥となり、東郷平八郎の死後は海軍最長老となる)。これが後に自らを窮地に追い込むことになる。 着任から半年後、首相・犬養毅が五・一五事件で海軍将校に暗殺されたため、大角は引責辞任を余儀なくされた。
経歴