この項目では、京都府京都市右京区の大覚寺について説明しています。その他の用法については「大覚寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
大覚寺
境内(建物は式台玄関)
所在地京都府京都市右京区嵯峨大沢町4
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度1分41.65秒 東経135度40分39.87秒 / 北緯35.0282361度 東経135.6777417度 / 35.0282361; 135.6777417
大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗大覚寺派の大本山の寺院。山号は嵯峨山。本尊は不動明王を中心とする五大明王。開山は恒寂入道親王である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である[1]。
時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている(#舞台となった作品)。 嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する持仏堂の五覚院を建て、修法を行ったのがそもそもの起源とされる。その後、嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王(淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。嵯峨天皇には甥にあたる恒寂(ごうじゃく)入道親王(淳和天皇皇子、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。 しばらくして後、大覚寺は興福寺一乗院による兼帯が続いたが、文永5年(1268年)に後嵯峨上皇が落飾して法皇となり素覚と号し、第21代門跡となっている。 徳治2年(1307年)には後宇多天皇が出家して法皇となり、法名を金剛性と号して第23代門跡に就任し、翌徳治3年(1308年)に大覚寺を再興した。法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。また、ここで院政を行ったため嵯峨御所(さがごしょ)とも呼ばれた。法皇の父である亀山法皇[注 1]から続く系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)[2]。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。 延元元年(1336年)に大火によってほとんどの堂舎が焼失した。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝の後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。ただし、南北朝時代を通じて南朝方寺院であったというのは事実ではなく、南北朝分裂後に南朝方の性円法親王(後宇多法皇の皇子)と北朝方の寛尊法親王
歴史
応仁2年(1468年)、応仁の乱によりほとんどの堂宇が焼失する。天文3年(1534年)からは東山にある安井門跡蓮華光院の門跡を兼帯するようになった。天文5年(1536年)、木沢長政により放火されて堂舎が炎上している。天正17年(1589年)に空性が門跡になってから復興にとりかかり、寛永年間(1624年 - 1644年)にはほぼ寺観が整えられた。
このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。 大沢池は唐の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、平安時代前期の名残をとどめる日本最古の人工の庭池とされている。当時の唐風文化の面影を今に残す園地は池の北方約100メートルにある「名古曽滝跡」とともに1923年(大正12年)に国の文化財として国の名勝に指定されている。毎年、中秋の名月の頃に、大沢池に舟を浮かべて「観月の夕べ」が催される。 大沢池は、嵯峨院の園池を引き継ぐものと推定されているが、これは南東にゆるく傾斜する地形を利用して南から東にかけて長い堤を築することで北西側からの流れをせき止めて築造された[4] 。この池はまた周辺水田の灌漑用水として重要な役割を果たしてきたことが知られている[4]。 池の北岸沿いに、西から、天神島、庭湖石、菊の島と並んでいて、この二島一石の配置が華道嵯峨御流の基盤とされている。天神島は嵯峨天皇による造園当時は陸続きで、出島状に北から大沢池へと突出した形状をなし,東西両側が入り江状に入りくんでいたと想定されている[5]。庭湖石は、巨勢金岡が立てたと伝えられる(西行『山家集』)[6]。菊の島は、嵯峨天皇が菊を栽培した場所とされる。また、その菊を手折り、花瓶に挿されたことが生け花の華道嵯峨御流の発祥と伝わるが、最近の発掘調査で、島が現在の形になったのは室町時代だったことがわかっている[7]。 名古曽の滝は離宮嵯峨院にあった滝殿庭園内に設けられたものである。『今昔物語集』によると百済川成が作庭したものとある。1981年(昭和56年)から始まった発掘調査によって、名古曽滝跡の現存する滝石組のうち、2石は当初の位置にあるものの、その他の石は後代の手が加わっていること[8]、滝から流れる豊富な水流が、その南方に開削された幅5-10mの蛇行溝(大部分が素堀)を通って大沢池へ注いでいたこと[9]が明らかになった。
大沢池と名古曽の滝