大西瀧治郎
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俳優の大西滝次郎については「大西信満」をご覧ください。

大西 瀧治郎
おおにし たきじろう

渾名特攻の父
生誕1891年6月2日
大日本帝国兵庫県氷上郡芦田村(現:丹波市青垣町
死没1945年8月16日(満54歳没)
大日本帝国東京
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1912年 - 1945年
最終階級 海軍中将
墓所西芦田共同墓地、鶴見総持寺
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大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、明治24年(1891年6月2日 - 昭和20年(1945年8月16日)は、日本海軍軍人海兵40期[注釈 1]神風特別攻撃隊の創始者の一人。終戦時に自決。最終階級は海軍中将

笹井醇一(海軍少佐太平洋戦争エース・パイロット)は(大西の妻・淑恵の姉である久栄の息子が笹井)。
生涯若宮 (水上機母艦)

1891年6月2日、兵庫県氷上郡芦田村(現:丹波市青垣町)の小地主、父・大西亀吉と母・ウタの次男として生まれる。

旧制柏原中学校在学中、日本海海戦勝利の時期であり、中学の先輩から聞かされた広瀬武夫中佐を熱心に崇拝した。1909年、海軍兵学校40期[注釈 2]に20番の成績で入学し、兵学校では、名物の棒倒し競技で、同期の山口多聞と毎年大暴れして、抜群の棒倒し男と目された。剣道は兵学校で最高の一級、柔道も最上位であった[2]寄宿舎の寮長も務め、秩序を乱す者がいれば、その者を布団に簀巻きにして、2階の窓から下に落とすような荒事もやっていたので、大西には誰も手出しをすることがなくなり、喧嘩瀧兵衛ともあだ名されていた。学業も優秀であり、1912年(明治45年)7月17日、150人中20番の成績で卒業した[3]

海軍兵学校卒業後、海軍少尉に任官。1912年(明治45年)7月17日、「宗谷」乗り組み。1913年大正2年)5月1日、「筑波」乗り組み。1914年(大正3年)5月27日、「河内」乗り組み。1914年12月1日、海軍砲術学校普通科学生。1915年(大正4年)5月26日、海軍水雷学校普通科学生。1915年12月1日、「若宮」乗り組み。

1915年(大正4年)12月、山口三郎ら5名と航空術研究員となり、6期練習将校として飛行操縦術を学ぶ。

1916年(大正5年)4月1日、横須賀海軍航空隊付。同年、複葉機を設計し民間製作の必要を感じた中島知久平機関大尉が、海軍をやめて飛行機製作会社(後の中島飛行機)を作りたいと大西中尉に打ち明けた。大西は賛成して奔走し、出資者を探し回った。大西が面会した山下亀三郎が海軍省に報告したため、大西は出頭を命じられ、「軍人に賜わりたる勅諭」を三回暗誦させられてから始末書を書かされた。大西は軍籍を離れて中島の会社に入ろうと思っていたが、軍に却下された。中島はこのとき「退職の辞」として、戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲して新航空軍備に転換すべきこと、設計製作は国産航空機たるべきこと、民営生産航空機たるべきことの三点を強調したが、この影響で大西は航空主兵論戦艦無用論をさかんに唱えたとも言われる[4]

1918年(大正7年)11月1日、横須賀鎮守府付、英仏留学。帰国後の1921年(大正10年)8月6日、横須賀海軍航空隊付、センピル教育団の講習の参加者の一人として選抜され、受講した。大西は日本で初めて落下傘降下を行った[5]。9月14日、海軍砲術学校教官、海軍水雷学校教官。1922年(大正11年)11月1日、横須賀、霞ヶ浦海軍航空隊教官。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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