大西洋横断電信ケーブル
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1858年の海底ケーブル

大西洋横断電信ケーブル(たいせいようおうだんでんしんケーブル)とは、大西洋を通る電信用の海底ケーブルである。最初のケーブルは1858年、大英帝国ヴァレンティア島(現在のアイルランド領)とアメリカニューファンドランド島(現在のカナダ領)の間に敷設され、実用可能な最初のケーブルは1866年に敷設された。
ケーブル敷設までの歴史
背景

1830年代の後半、イギリスのウィリアム・クックチャールズ・ホイートストン、アメリカのサミュエル・モールスらにより、電信が実用化された。やがて電信はモールス信号を用いた通信が一般的になり、1840年代にはヨーロッパやアメリカで陸上の電信が急速に普及していった[1]

これに対し海底の電信は、電線を覆う絶縁物質に適した材料を選び出す必要があったので、陸路に比べて敷設が遅れていた。しかし、マレー半島の樹木から採れるガタパーチャと呼ばれる樹液が利用できるということが分かり、海底ケーブル敷設の道は開けた。初の海底ケーブルは、1850年、ブレット兄弟(兄John Watkins Brett、弟Jacob W. Brett)によりドーバー海峡に敷かれた[2]。このケーブルは不慮の事故により翌日切断されたが、翌1851年に再び敷設され、英国とフランスをケーブルで結ぶことに成功した[3]

この成功によって海底ケーブルはブームとなり、英国からアイルランドベルギーオランダへのルート、そして地中海黒海など、1855年の時点で25本の海底ケーブルが敷かれた[4]。しかしこの時点で大西洋にはまだケーブルが敷設されておらず、情報伝達は未だに蒸気船に頼っていた。
事業計画サイラス・フィールド

フレデリック・ニュートン・ギズボーン(英語版)は、大西洋間の情報伝達速度を高めるため、英国とニューファンドランド島に新たな航路を設ける案を考え、アメリカの実業家サイラス・フィールドに資金援助を求めた[5]。サイラス・フィールドはこの話を聞き、考えた結果、航路ではなく大西洋にケーブルを通す構想に行きついた[6]。しかし、この事業は困難が予想された。当時の海底ケーブルで最も長いものは黒海に敷設された574kmのケーブルであったが、大西洋を結ぶにはそれをはるかに上回るおよそ3000kmのケーブルが必要であり、さらにケーブルは深さ3000mを超える深海を通すことになる。これは初の試みであったため、無事に開通できるかどうか不確定な要素が多かったのである[7]

この疑問を解消すべく、サイラス・フィールドは海底の地形に関して、海洋学の権威であったマシュー・フォンテーン・モーリーに相談した。モーリーはジョン・ブルックの装置を使い計測した北大西洋の地形図を所持しており、敷設予定の地形は平坦だという確認が取れていたため、ケーブルの敷設には問題ないと回答した[8]。フィールドはさらに他の問題に関しても専門家や海底ケーブルの製造会社に問い合わせ、計画は実現できるという確信を得た[7]

そこでサイラス・フィールドは1856年、大西洋横断電信ケーブルの事業を行うため、アトランティック・テレグラフ社を創立した。資金35万ポンドはフィールドが4分の1を出資し、残りを英国の事業家が出資した。会社は副会長にサミュエル・モールスをあて、主任技師にはエドワード・ホワイトハウスとチャールズ・ブライトを起用した。また、ウィリアム・トムソン(後のケルヴィン卿)も役員に名を連ねた[7]

ただしトムソンは、この計画の技術的な問題点を指摘した。トムソンは1855年、マイケル・ファラデーの研究を元に電信方程式を発表していたが、この式によると、通信の速度はケーブルの断面積に比例し、長さの二乗に反比例する。つまり長い距離のケーブルでは伝送速度が遅くなってしまうことになる。これを防ぐために、計画よりも太いケーブルを作らなければならないと主張したのである[9]

しかしこの意見はフィールドには受け入れられないものであった。ケーブルを太くすればその分費用もかさみ、敷設するのにも3隻の船が必要になってしまう。第一、すでにケーブルの一部は製作されていた。また、主任技師のホワイトハウスもトムソンの意見を「学者の作り話」と否定した[10]。ホワイトハウスはモールスと共に、陸上で長さ3000kmのケーブルを使用して通信テストを行い、トムソンの主張する現象は起こらないことを確かめた[7]。また、ホワイトハウスはファラデーから、「トムソンの主張は完全に正しくはなかったのではないか」というコメントを引き出し、これをトムソン説否定の根拠とした[11]。こうしてトムソンの意見は無視される形となった。トムソン自身はその後もこの事業に関わり、敷設のための航海にもすべて参加することとなる[12]のだが、技術的な指揮は基本的にホワイトハウスがとるようになった[10]

一方、資金は順調に集まり、ケーブル製造は急ピッチで進められた。そして1857年7月にケーブルは完成し、敷設の準備は整った[13]
最初の敷設工事(1857年)戦艦アガメムノン

ケーブル敷設のための航海は1857年8月に行われた。ケーブルは1隻の船では積みきれないため、英国の軍艦アガメムノンと米国の軍艦ナイアガラの2隻に分けられた。ブライトは敷設にかかる時間を短くするため、大西洋の真ん中から両端に向かって2隻で敷設する案を出したが、最終的には電気技術者の要望によりヴァレンティア島から一方向に敷設することになった。この方法は時間がかかるが、敷設中にケーブルで本土と通信ができるという利点があった[14]。ヴァレンティア島を起点に、先にナイアガラがケーブルを敷設しつつ大西洋を進み、海上でアガメムノンと合流してケーブルを接続する予定だった[14]

ところがナイアガラが540km敷設したところで、ケーブルの繰り出し速度が速すぎることに気づきブレーキをかけたところ、ケーブルが切断されてしまった。ケーブルはそのまま深海へと沈み、当時はこれを引き上げる技術は無かったため、工事は断念せざるを得なかった[15]
2度目の敷設工事(1858年)


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