大西洋憲章
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大西洋会談
コードネーム: Riviera
会談中のフランクリン・ルーズベルトウィンストン・チャーチル
開催国ニューファンドランド
日程1941年8月9 - 12日
会場プラセンティア湾 アルゼンチア海軍基地(英語版)
参加者 フランクリン・ルーズベルト
ウィンストン・チャーチル
前回第1回連合国会議
次回連合国共同宣言
注目点
大西洋憲章

大西洋憲章(たいせいようけんしょう、英語: Atlantic Charter)は、1941年8月14日に発表された、第二次世界大戦終了後のアメリカイギリスの目標を示した声明である。



背景イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズ」艦上のルーズベルトとチャーチル

ナチス・ドイツヨーロッパでの勢力拡大と1939年9月のイギリスの対独宣戦布告の中、アメリカ議会は11月に中立法(米国内法1935年8月成立)を改正して維持したが、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは戦争状態にある国(イギリスとフランス)への武器の輸出を、政府の認可制度によって可能にした。

連合国は、1941年6月のセント・ジェームズ宮殿宣言で、第二次世界大戦後の世界に対する理念やビジョンを初めて表明した[1]ナチス・ドイツのソ連侵攻後の1941年7月には英ソ軍事同盟(英語版)が締結され、両国の間で同盟関係が結ばれた[2]

アメリカ議会は1941年3月には武器貸与法を成立させた。
会談

アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相は1941年、大西洋プラセンティア湾カナダニューファンドランド州沖)で会談し、後に大西洋憲章としてまとめられる内容を協議した[3]。会談終了後の1941年8月14日、湾内のアメリカ海軍アルゼンチア海軍基地(英語版)で共同宣言を行った。この基地は、ドイツのUボートに対抗するために余剰の駆逐艦50隻をアメリカからイギリスに貸与するという取り決めの一環として、イギリスから借り受けたものだったが、アメリカが第二次世界大戦に参戦するのは、その4か月後、大日本帝国による真珠湾攻撃からだった。

大西洋憲章のアイデアの多くは、国際的な安全保障のために英米の協力を求める英米国際主義のイデオロギーに由来するものである[4]。ルーズベルトはイギリスを具体的な戦争目的に結びつけようとし、チャーチルはアメリカを戦争に結びつけようと必死になっていたことが、大西洋憲章を策定する会議の動機となった。当時は、この憲章の原則に基づく戦後の国際組織において、イギリスとアメリカが同等の役割を果たすことが想定されていた[5]

チャーチルとルーズベルトは、第二次世界大戦中に1939年以降で11回の会談を行った。この会談は秘密裏に行われたもので、ルーズベルトは10日間の休暇と称して会談に参加していた[6]

1941年8月9日、チャーチルを乗せたイギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」がプラセンティア湾に入港し、ルーズベルトとそのスタッフは重巡洋艦オーガスタ」で出迎えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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