大蔵貢
[Wikipedia|▼Menu]
大蔵貢(1957年)

大蔵 貢(おおくら みつぎ、1899年11月22日 - 1978年9月15日)は、活動写真の弁士新東宝社長、大蔵映画社長。歌手の近江俊郎の実兄[注釈 1]
来歴

1899年(明治32年)11月22日長野県西筑摩郡吾妻村南沢(現・木曽郡南木曽町)にて生まれる。のちに下伊那郡清内路村(現・阿智村)に移る。父親は栃の木材で椀などを削って売る木地師をしており、転住を繰り返す生活で、「将来、のある家に住めるとは思わなかった」と述懐するほど貧しかったという。きょうだいは9人いたが、うち5人は貧しさの中で死んでいった。家族は東京に移転するが家計は相変わらず苦しく、これを助けるため小学校に通いながら働いた。
活動映画弁士となる

大蔵によれば「小学校を四年で卒業し」、13歳で活動写真の弁士となった。好色なトークや、チャールズ・チャップリンの映画をチャップリンそっくりのメイクと衣装で解説するなどの工夫が受け、頭角を現す。無声映画は弁士次第でヒットすると言われ、スター俳優より弁士の稼ぎは凄かった。その後、映画界が無声映画からトーキーへと移行するのを見越して収入を蓄財し、映画館の買収並びに経営に乗り出す。

弁士の多くが漫談等に転向したのに対し(例、徳川夢声)、大蔵は実業家への道を選んだ。貧しさの中で育った大蔵は弁士時代から、「金を貯めるにはまず使わないこと」、「女買いをしないこと、煙草を呑まぬこと、骨身を砕いて働き、一分の暇でも読書し勉強すること。生活に必要以外の金はすべて蓄えること、積んだら下ろさぬこと、芸の向上に魂を打ち込むこと」を座右の銘としていて、弁士時代、肺結核の先輩弁士が食べ残した弁当を自分の昼食代わりにしたほどの倹約ぶりだった。大蔵は、成功してからもこの信念を曲げなかった。

のちに新東宝社長となってから、弁士時代の名口上を披露することがあったが、その語り口は絶品だったと伝えられている。東京都台東区浅草浅草寺わきにある弁士塚は、大蔵が弁士時代の盟友たちを顕彰するために日本映画大手5社に呼びかけて1958年に建立したものである。
映画館興行主となる

弁士で稼いだ金で目黒の目黒キネマを買収したことを皮切りに下番線の三流映画館を次々に買収して財を成す。毎朝、チェーン館の支配人たちが前日の売上を麻袋に入れ、大蔵邸に集合するとソロバン片手に夫人がピーナッツ袋一つの売上まで厳しくチェックしたという。麻布松竹の下番線館を買収したのを機に、大谷竹次郎の知遇を得る。弁士時代にハリウッド映画に通じた大蔵は、当初は高級なハリウッド映画を上映したが、これが全くの不評で、投資額の半分に及ぶ大赤字を出す。

この経験から大蔵は「郷に入れば郷に従え」と反省し、高級な洋画から庶民的な邦画に上映作品を変えたところ、大成功。こうして東都随一の映画興行師となった1936年、経営難に喘ぐ日活が常務に迎える。大阪の森田佐吉と共に、東宝・松竹の両社から狙われた日活の自主再建のため中立的な存在として経営に当たったものだが、実は既述の通り大谷と通じていたため利益相反行為で執行停止処分を受け、辞任を余儀なくされた(なお、後任の堀久作小林一三と通じていた。)。戦後、「日活常務」のため、公職追放となる[1]
新東宝社長となる『雷電』(1959年)の打ち合わせ(前列右が大蔵)

その後も、映画館を複数所有し、大手映画会社すべての有力株主となる。1955年、新東宝の株主総会での発言がキッカケとなり、同社社長の田邊宗英から後任社長に迎えられる。就任は同年12月29日。大蔵は外部から有名監督やスターを招く同社の文芸大作路線を改め、中堅、若手の内部スタッフ、俳優を使った企画第一主義にシフト。特に低予算の猟奇怪談お色気といった「エロ・グロ路線」が鮮明となったのは1957年あたりからである。徹底的なリストラとこの「エロ・グロ路線」によって新東宝創建当時の監督や俳優たちには去られたが、社長就任わずか半年後で新東宝の経営は黒字転換。

一方で話題性を持つ作品づくりを目指すという名目で、当時最大のタブーだった天皇を主役とする映画にも挑戦。嵐寛寿郎明治天皇を演じさせた渡辺邦男監督『明治天皇と日露大戦争』は大蔵の思惑通り日本映画史上最大のスキャンダルともてはやされて、興行配収7億円(当時)という大ヒットを記録する。

1957年、大蔵は新東宝の制作姿勢について、次のように語っている。「一部の階級のみに迎合するがごとき芸術作品は敬遠し、一にも二にも、多くの大衆に基盤を置く作品を制作の根本姿勢としたい。これを以て新東宝カラーとしたいと考えております。」

大蔵は映画スターの人気にあやかる「スターシステム」を批判し、「名企画無くして興行の成功はあり得ない」と唱え、「映画は企画」と論じて譲らなかった。「エロ・グロ路線」についても、「不況の時代に百発百中、損をしないのはあの方法しかない」と述べている。

徹底的なワンマン体制を敷いた経営者と誹りを受けるが、その実体は大蔵自身が企画第一主義を標榜した通り、監督やスターの知名度ではなく企画の面白さで集客を狙うという、映画作りの最も基本的なポイントを押さえたものであった。
相次ぐスキャンダル

大蔵は『一にスピード、二にもスピード、三はすなわちタイムイズマネー』の標語を撮影所内いたるところに張り出させ、黒塗りのキャデラックで部課長総出の出迎えを受けて出社。月に二回、箱根熱海に「監督会」として監督たちを集めて宴会を開いた。女優をにし、近江俊郎に監督をさせる身内贔屓をしたり、「監督会」ではポンと祝儀をはずみ「**踊れ」と芸者扱いした。銀座のバーなどに女優を呼び、接待などもさせていた。

また前田通子高倉みゆき池内淳子ら新東宝専属の女優達に「エロ・グロ路線」のなか、他社には見られない扇情的な役柄を与えた。映画各社のなかで新東宝の興行は最下位となっていたが、興行成績の上位はすべて「エロ・グロ路線」だった。新東宝にはこの路線しか生き残る道は無かったのである。

もっとも大蔵が自社の女優を手当たり次第、物色していたため物議を醸していたことから、催眠術を操れた丹波哲郎は大蔵と会食した際、大蔵の愛娘に催眠術を掛けてやると持ちかけた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef