大蔵経
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出典検索?: "仏典" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年7月)
ビルマのパーリ語写本

仏典(ぶってん)とは、仏教典籍の略称で、仏教聖典の総称である。「律蔵」「経蔵」「論蔵」という分類形態から三蔵とも呼ばれる。言語的には、パーリ語サンスクリット語などのインドのものを初めとして、漢語チベット語モンゴル語満州語のものがあり、西夏語のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準じる。

大きく原始仏典と大乗仏典に分かれる。原始仏典にはパーリ五部および漢訳の阿含経典群があり、その一部は釈尊の言葉を比較的忠実に伝えているといわれる。Buddhavacana は「仏陀の言葉」という意味である。

大乗仏教の代表的な仏典としては、『般若経』、『維摩経』、『涅槃経』、『華厳経』、『法華三部経』、『浄土三部経』、『金剛頂経』などが挙げられる。大乗仏典は西暦紀元前後以降、大乗仏教教団によってサンスクリット語で編纂された。歴史上の釈尊の説ではないとする大乗非仏説もあるが、そのため抽象化された非人間的存在としてのブッダの説すなわち仏説であるとしている。般若経典群、『法華経』、『華厳経』その他がこれに含まれる。

また大乗仏教では経・律・論および、その注釈書などは、大蔵経もしくは一切経と呼ばれる叢書にまとめられた。この作業は、中国では皇帝名で行われることが多く、編入される書物の基準が厳格で、入蔵録と呼ばれる収録対象とすべき仏典のリスト(経録)とセットにされ、基準外のものは蔵外(ぞうがい)と称された。昭和9年(1934年)に、日本で編纂された大正新脩大蔵経は、より広範囲に中国・日本撰述の典籍も含めている。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none}
分類

仏典は、律・経・論に三分類され、ひとまとめにされたものが、それぞれ律蔵、経蔵、論蔵と総称される。この三種を総称して「三蔵」と呼ぶ[1]

律蔵 - : Vinaya ヴィナーヤ, ヴィナヤ)の総称。出家修行者(比丘比丘尼)が護るべき戒律具足戒波羅提木叉)及び僧伽(僧団)の運営規則。

経蔵 - (梵: Sutra スートラ、: Sutta スッタ)の総称。釈迦の教いた法(ダルマ)の集成。

論蔵 - (梵: Abhidharma アビダルマ)の総称。律や経に対する研究、解釈をまとめたもの。

漢字文化圏では、大乗仏教経典や偽経の追加、段階的な伝播・翻訳過程によって、元々の「三蔵」の枠組みが壊れてしまった。後に『一切経』『大蔵経』として仏典群を総集・再編し直したので、専らこれが仏典の総称として用いられる。
歴史
結集と作成

仏教の聖典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため、暗記によって保持されたと伝えられる。この時代のインドでは、文字は既に普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。

仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した[2]

この編纂会議を結集(けつじゅう、サンスクリット:sa?g?ti)と呼ぶ[2]。しかし、ここでは現在我々が目にする仏典の成立ではなく、核とも言うべきものが作られた。この編纂会議は、第一結集と呼ばれている[2]
増広と伝播

仏典は当初の数百年間は口頭伝承のみで継承された。仏典が文字で写本として書かれるようになったのは紀元前1世紀ごろからである。口伝から写本へという媒体の変化が大乗仏教を生んだ、という説もある。釈迦(前463?前383)によって創始された仏教は、その開祖の入滅後、三、四百年のあいだは、口頭伝承のみによって教えを継承した。ところが、紀元前一世紀頃に文字が導入されると、教えのことばが存在する地平は、写本へと移し替えられはじめた。このとき、経師と呼ばれる経典伝承の専門家たちは、書写された経典を口頭伝承のための補助手段としてもちいるにとどめるものと、書記言語として結実するテクストの重要性に気づき、伝承された知識全体の見なおしにかかるものとに分岐した。前者は「伝統経典」の継承をつづけ、後者は大乗仏典を生み出した――教説伝承の媒体の変化をめぐって、およそこうした歴史が浮かびあがってくるのである。 ― 下田正弘『仏教とエクリチュール』(東大出版会、2020年)p.321

インドの仏教史を見ると、釈迦を出発点とする原始仏教時代、部派仏教時代、大乗仏教時代の三つの時代、さらにインドから仏教が伝播していく過程を通して、聖典は作成され続けた。釈迦の教えとして仮託されて後世につくられたため、その内容は相互に矛盾がある。梵文原典やチベット語訳が見当たらず、漢訳仏典にのみ存在し、中国で執筆されたとみられる経典(偽経)も多い。日本仏教においても、慣れ親しんだ経典の中に偽経とされるものは多い(大乗非仏説)。

仏典を研究する場合には出自調査は難しい場合が多い。ことに経典は一般に釈迦の説法の記録の形式をとり、著作者名が記されることはない。具体的に言うと、現代人からは釈迦の死後数百年を経過して書かれたことが明らかな仏典であっても、釈迦の教説を正しく継承しているという立場を標榜し、「このように私は(仏から)聞いている」(漢訳仏典では「如是我聞」)という出だしで始められており、仏典自身には、いつ、どこで著述されたかは、明記されていない。したがって、古代から近世の人々は、内容の通り直説であると信じて受容していった。

伝承すると利益があるという内容も多く、研究の対象のみならず信仰対象として各仏典は仏教の伝播先で盛んに書写され、現代では芸術品や文化財として重視されるものもある(日本の平家納経など)。
近現代

アジア各地で経典が西洋人に収集され、史料批判された結果、大乗非仏説が登場した。日本でも近世には疑義が起こっており、近代仏教学が受容されたことにより、学問的な場では近代仏教学・大乗非仏説を受容し、一般的な場では釈尊直伝とする古典的な教学に立脚することが多い。

大乗経典が学術的権威を大きく損ねた一方、収集と翻訳が進み、サンスクリット語からの直接翻訳、口語訳などもされるようになり、より身近なものにもなった。
原典問題

各国語に翻訳される以前の「原典」と呼ぶべき聖典は、インドの言語による聖典が中心になる。釈迦の用いた言語は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}古代マガダ語と推定される[要出典]ので、最初期の仏典もこの言語を使用したと考えられる。

かつては「現在残る聖典で、最も古いのは、パーリ語の聖典である。パーリ仏典は経蔵が漢訳大蔵経の阿含部と共通していて、根本分裂以前の最も古い文献を保持していることが分かっている。[要出典]」という上座部仏教の信仰に寄りそった言説が漠然と信じられていた。しかし、現在活用できるパーリ仏典の写本は18世紀以降の新しいものばかりで来歴も不明なものが多いため、現存のパーリ仏典の内容は本当にそれほど古いものなのか、学術的に証明することは困難である。むしろ近年の学界では、古代インドの仏教を学術的に考察するうえで、パーリ仏典の歴史資料としての価値は限られている、という認識が広まりつつある[3]

漢訳仏典は、4世紀の釈道安が整理を行って以来、文献の成立年代や伝承の来歴がはっきりしている。その意味では、学術研究の歴史資料としてはむしろパーリ仏典より価値がある、とする見解もある[3]。漢訳仏典の大半はサンスクリット原典から訳出されたものだが、サンスクリット原典が残っていないことが多いうえ、現存するサンスクリット原典の写本も漢訳より古い時代のものは少ない。その理由としては、

中国、インドいずれでも王朝の交替や宗教、思想の変遷により新たな支配層にとって不都合な記述のある原典が言論・思想統制で意図的に破棄された。

中国では漢訳仏典は写本により流布したが、サンスクリット原典は漢民族社会では需要がないため保存されなかった。

写本によらず、訳経僧が暗諳していた聖典を漢訳したため、元から原本が存在しなかったケースの存在。

が考えられる。いずれにしても梵本は、中国では用いられなかった。
上座部仏教

釈迦の入滅後、教えを正しく伝えるために、弟子たちは聖典編集の集会(結集)を開き、仏典整理を開始した[2]。ところが、仏滅後100-200年ころには教団は多くの部派に分裂し、それぞれの部派が各自の三蔵を伝持するようになった。それらはインドの各地の言語によっていたと思われる。

部派仏教三蔵(現存するもの)[4]上座部大寺派化地部法蔵部説一切有部大衆部
(Dharma)長部
中部
相応部
増支部-長阿含経長阿含経
中阿含経
雑阿含経-
(Vinaya)パーリ律五分律四分律十誦律
根本説一切有部律摩訶僧祇律

完全な形で現存するのは、スリランカに伝えられた上座部系のパーリ語仏典のみで、現在、スリランカ、タイ、ミャンマーなど東南アジアの仏教国で広く用いられている。その内容は次の通りである。
律蔵:経分別(戒律の本文解説)、犍度(けんど、教団の制度規定)、付録。

経蔵:長部、中部、相応部、増支部、小部の5部。前4部は漢訳『阿含経』に相当する。

論蔵:法集論、分別論、界論、人施設論、論事、双論、発趣論の7部。

これらは紀元前2世紀-紀元前1世紀ころまでに徐々に形成されたもので、紀元前1世紀ころにスリランカに伝えられたといわれ、以後、多くの蔵外の注釈書、綱要書、史書等が作られた。1881年ロンドンにパーリ聖典協会 (Pāli Text Society) が設立されて原典の校訂出版等がなされ、日本では若干の蔵外文献も含めて『南伝大蔵経』65巻(1935年-1941年)に完訳されている。

注意が必要なのは、パーリ仏典が必ずしも古い形を残しているとは限らない点である。漢訳の『阿含経』には上座部に伝わったより古い形態のものがあったり、あきらかにサンスクリット語からの漢訳と考えられるものがある。その意味で、パーリ仏典が原初の形態を伝えていると考えることは、間違いではないが正確な表現ではない。
大乗仏教
漢訳仏典

中国における仏典の漢訳事業は2世紀後半から始まり、11世紀末までほぼ間断なく継続された。漢訳事業の進行に伴い、訳経の収集や分類、仏典の真偽の判別が必要となり、4世紀末には釈道安によって最初の経録である『綜理衆経目録』(亡佚)が、6世紀初めには僧祐によって『出三蔵記集』が作成された。これらの衆経ないし三蔵を、北朝北魏で「一切経」と呼び、南朝で「大蔵経」と呼んだといい、初に及んで両者の名称が確立し、写経の書式も1行17字前後と定着した。

隋・唐時代にも道宣の『大唐内典録』等の多くの経録が編纂されたが、後代に影響を与えたのは730年(開元18)に完成した智昇撰『開元釈教録』20巻である。ここでは、南北朝以来の仏典分類法を踏襲して大乗の三蔵と小乗の三蔵および聖賢集伝とに三大別し、そのうち大乗仏典を『般若』、『宝積』、『大集』、『華厳』、『涅槃』の五大部としたうえで、当時実在しており、大蔵経に編入すべき仏典の総数を1076部5048巻と決定した。ここに収載された5048巻の経律論は、北宋以後の印刷大蔵経(一切経)の基準となった。

漢訳仏典は、古写本も豊富に残っている。日本国内に限っても、奈良時代に書写された仏教経典が一千数百巻、その奈良時代のものから転写したと想定される平安時代から鎌倉時代の古写経が一万巻以上も現存しており、これらの古写経は敦煌の仏教文献群に比肩する重要な資料群と評価されている[5]
大蔵経

テキストの形態は、初期は巻物状の写本(巻子本)であったが、北宋の『開宝蔵』以降は木版印刷の版木、刊本の形となった。近年では電子データ化された大蔵経も利用できるようになっている。収録される仏典は、三蔵(経律論)におさまる漢訳文献と、中国側の注釈書、独立作品、僧の伝記、目録などの著作群からなる。[6]
中国
北宋版系

最初の大蔵経刊本は、北宋太祖太宗の治世、971年 - 977年開宝4 - 太平興国2)にかけて蜀(四川省)で版木が彫られ、983年(太平興国8)に、都の開封に建てられた「印経院」で印刷された。これは古くは『蜀版大蔵経』と呼ばれていたが、現在では開版の年号をとって『開宝蔵』、あるいは太祖の詔勅に基づいて開版されたため『勅版』と呼ぶのが一般的である。『開元釈教録』によって編纂される。当時の「蜀大字本」の規格の文字により、毎行14字の巻子本形式であった。これは宋朝の功徳事業で、西夏高麗、日本などの近隣諸国に贈与された。


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