大艦巨砲主義
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イギリス戦艦「ロドニー」の主砲(1940年)

大艦巨砲主義(たいかんきょほうしゅぎ)とは、艦隊決戦による敵艦隊撃滅のため大口径の主砲を搭載し重装甲の艦体を持つ戦艦を中心とする艦隊を指向する海軍軍戦備・建艦政策および戦略思想[1]。巨砲大艦主義、巨艦巨砲主義、巨砲巨艦主義、大艦大砲主義とも言う。

英国海軍戦艦ドレッドノート (1906年)が各国間の建艦競争を大艦巨砲主義に走らせる契機となった[2]。しかし、タラント空襲真珠湾攻撃マレー沖海戦の戦訓により、適切な航空援護なしに戦艦を戦闘に参加させてはならないことが認識された[3]
思想
背景

19世紀末ごろから主に蒸気機関の発達によって、大型で高速の艦艇が作れるようになった。

同時に艦砲は大型化するほど射程も伸び、威力も大きくなる。そこで、大型の軍艦に大型の砲をより多く搭載しようという考え方が大艦巨砲主義であり、19世紀末から20世紀前半まで主要海軍国で支持されていた[4]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本海軍でも、日露戦争時の日本海海戦で大艦巨砲と「艦隊決戦」を至上とする考え方が確立された(海戦要務令)。その後も大東亜戦争後半期まで軍令戦術上の主流となった。長駆侵攻してくる艦隊を全力で迎撃・撃退するのが基本方針であり、その際の主役は戦艦とされ、航空母艦巡洋艦駆逐艦などは脇役に過ぎないという思想があった。[要出典]

大艦巨砲主義の進展は、方位盤をはじめとする射撃管制装置の発達とも関連している。射程の長い砲があっても、遠距離で敵艦に命中させられる技術がなければ無意味だからである。

ドレッドノート」が画期的だったのは、多数の主砲の射撃管制を可能とする射法の完成あってのことである。1940年頃まで各国の戦艦は光学式測距儀方位盤射撃を用いた射撃管制装置を主用していた。しかし米英では1941年以降レーダーの実用化により、着弾観測については光学式測距儀よりもレーダーを使用した電測射撃に移行していった。これに対し、日独は米英に電子兵装で格段に後れを取り、電測測距と併用したものの、光学式測距儀を最後まで実戦で主用した。なお、フランスはすぐに敗戦したため、射撃用レーダーを搭載したもののその効果は不明である。イタリアは終戦時まで対空見張り用レーダーのみだった。光学式の測距はとくに遠距離射撃では誤差が大きく、近距離でも夜間、曇天、悪天候などで視界の悪い時にレーダー管制に劣っていた。そのため、水上艦艇同士の戦闘において電測射撃が行えることはかなり優位だった。ただ、初期の射撃用レーダーは測距性能は充実していたものの方位探知角が不足しており、時には光学観測射撃に後れを取ることもあった。[要出典]
思想の変遷

他国より大型の戦艦に巨大な主砲を搭載するという、文字どおりの大艦巨砲主義は1936年ワシントン海軍軍縮条約明け後には終焉を迎え、前代と同程度、あるいはやや小型化した主砲の採用例が多くなった。

第一次世界大戦中の1916年に生起したユトランド沖海戦において、イギリスとドイツが弩級戦艦超弩級戦艦を含む艦隊で衝突し、長距離砲撃戦の重要性が再認識されたことで各国の大艦巨砲主義は一層強まり[5]、速力と防御力の向上を追求したポスト・ジュットランド艦(高速戦艦)が建造されたが、必然的に排水量も増えてしまい主砲口径の増大を諦めざるを得なかった為である。


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