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この項目では、15世紀中ごろから17世紀中ごろのヨーロッパ人による植民地主義的な海外進出について説明しています。
コーエーから発売されているコンピューターゲームのシリーズについては「大航海時代シリーズ」をご覧ください。
同シリーズの第1作については「大航海時代 (ゲーム)」をご覧ください。
1502年に描かれたカンティーノ平面天球図
大航海時代(だいこうかいじだい)とは、15世紀半ばから17世紀半ばまでのヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代を指す区分である。主にポルトガルとスペインにより行われた。 「大航海時代」の名称は、1963年岩波書店にて「大航海時代叢書」を企画していた際、それまでの「地理上の発見」、「大発見時代」(Age of Discovery / Age of Exploration)といったヨーロッパ人の立場からの見方による名称に対し、新しい視角を持ちたいとの希求から、増田義郎により命名された。増田は、大航海時代の時間的範囲について、議論があると前置きした上で、具体的な始まりと終わりの年を提案している。増田によれば、大航海時代の始まりは、1415年におけるポルトガルのセウタ攻略。終わりの年は、三十年戦争が終結し、ロシア人の探検家セミョン・デジニョフがチュクチ半島のデジニョフ岬に到達した1648年である[1]。 人類出現以来、隣り合う文化文明は互いに交流し影響を及ぼしあってきた。文化交流は人類に限られたことではなく、道具の使用をも文化と認めるなら、チンパンジーや一部の鳥獣についても、個体間や隣り合う地域を介して文化交流が行われている[2]。人類は言葉や文字を使用するので、より円滑に文化文明を伝播することが可能であるが、極東と西ヨーロッパのように遠隔地に住む人々が直接交流するためには、試行錯誤を経た知識の蓄積や、異国から得た科学技術の進歩が必要であった。 強大な国家が成立した場合、当然のように遠隔地間交流が加速する。そのことは文明のゆりかごの発祥地をはじめインカ帝国やアステカ帝国の例を見るまでもなく明らかである。 古代ギリシャ人は、地中海周辺とエジプトさらにアケメネス朝ペルシャが支配するオリエントの一部を世界として認識していた。アレクサンドロス3世(大王)の東方遠征によって、ギリシャ人の世界観はインド・中国までに一気に広がった。アレキサンドロス3世がペルシャの皇女を娶ったことに象徴されるように、アレキサンドロス3世の帝国ではコスモポリタニズムが標榜され、遠隔地に住む人々同士の交流が盛んに行われ、その伝統はディアドコイ達が建国した国々やギリシャ文化の影響を強く受けた古代ローマにも受け継がれた。 パックス・ロマーナの下、整備された航路や道路を使って盛んに遠隔地交易が行われ、地中海地域や中東地域をはじめ遠く極東からも珍しい商品がローマにもたらされた[3]。多様な人種・民族が奴隷となり或いは傭兵となり、またある人々はローマの富を求めて流入し、国際間の交流は益々増加して行った[4]。また、こういったグローバリズムが進んだ影響でペストの大流行などを始めとする疫病がヨーロッパを中心とするエピデミックも起こっているが、それによってグローバリズムの対義的なナショナリズムの勃興も見られるのもこの頃からで古代ギリシャのような都市国家よりも範囲の大きな領域国家の形成につながる流れも見え始める。 中東・インド・中国でも強力な世界帝国[5]が成立し、その影響下にある国々の間で盛んに交易が行われ、シルクロードや複数のスパイスロードによる香辛料貿易など多数の交易路や航路が開拓整備された。アフリカ地域でも古代エジプトのほか、大陸奥部にも王国が成立し、塩や金が大陸を行き交った。このように各地域で発展した交易圏は、時代とともに互いに接触を深め、旧世界においては世界的交易ネットワークが徐々に構築されていった。 ローマ帝国が衰退すると、未開人といわれたゲルマン人やノルマン人が相次いでヨーロッパを侵し、またイスラム勢力がイベリア半島に侵入し、ヨーロッパは混乱と停滞の時代を迎える。やがて西ローマ帝国領土であった現在のイタリア・フランス・ドイツでは、カトリックを精神的支柱とするフランク王国が出現した。フランク王国はゲルマンの伝統を色濃く残していたが、ローマの遺産も尊重し継承した。ようやく安定がもたらされた西ヨーロッパの経済が活性化し富が蓄積され、フランク王国はトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラムの北進を阻んだ。ペストの流行や気候寒冷化による混乱の中で暗黒時代を経験した中世ヨーロッパであったが、数世紀を経てゲルマン人やノルマン人の国家が淘汰・洗練され、徐々に力をつけていった。西暦1000年頃、ヴァイキングと呼ばれていたノース人がヴィンランド(ニューファンドランド島)のランス・オ・メドーに到達した記録が『赤毛のエイリークのサガ』や『グリーンランド人のサガ』に記録されている。しかし、先住民スクレリングの激しい抵抗に遭い、10年ほどで放棄した。 11世紀後半セルジューク朝トルコがパレスチナを占領する。セルジューク朝トルコの脅威を受けて東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスは聖地回復を大義名分に、ローマ教皇・ウルバヌス2世に支援を求めた。ヨーロッパ各地に十字軍の結成が呼びかけられ多数の王侯貴族や民衆がこれに応じたが、当初の十字軍の発動で中心的役割を果たしたのはフランスの諸侯とそれに付き従う騎士や民衆であった。そして結果的に聖地エルサレム奪回を目的とすると言われながらも十字軍内部での主導権争いや利権の争奪戦に発展したり、インノケンティウス3世によって発動されたアルビジョア十字軍のように本来キリスト教圏である南フランスに派遣される十字軍が登場するに至って、フランスの貴族、諸侯もローマ教皇に利用されていただけである事に気付いたことがガリカニスム(フランス王と諸侯による反カトリック的思想)の形成、さらに教皇権の衰退の遠因にもなっていく。 多くの者が殉教精神から十字軍に参加したが、教皇は東方教会への影響力拡大を望み、王侯貴族はイスラムの領土や富の収奪[6]、さらに、交易が盛んな文化国家東ローマ帝国への影響力行使も望まれ、それが最も顕著な形で現れたのがインノケンティウス3世の発動した十字軍であり、同胞とも言える同じキリスト教圏内のギリシャ正教会が率いた東ローマ帝国のコンスタンティノープルを陥落させる事態も起こった。 狂信者や野心家、無頼漢までも含む十字軍は、1096年、聖戦の名の下に東方へ進軍した。利害対立によって抗争をくり返していたイスラム勢力を撃破しながら、パレスチナやその周辺を占領し複数のキリスト教国家を建設したが、寄せ集め勢力の十字軍もまた主導権争いに明け暮れ、ローマ法王(教皇)や東ローマ帝国との対立も深まり、混迷の様相を呈した。利権をめぐって『敵の敵は味方』とばかり、十字軍勢力とイスラム勢力が同盟する事態さえ発生した。 また十字軍によるイスラム教徒・ユダヤ教徒など異教徒への激しい弾圧が民衆の抵抗を招き、長引く戦争によって十字軍内の士気は低下し、堕落と厭戦気分が蔓延した。さらに十字軍遠征による戦費調達は重くヨーロッパ各国民衆にのしかかり、熱狂的殉教精神も次第に沈静化していった。 サラディーン(アラビア語: ????? ?????? ??? ??????? ???? ????? ???? ?? ????? 、サラーフ・アッ=ディーン、?al?? ad-D?n)による反撃から約1世紀、1291年、十字軍は最後の拠点であったアッコンを失い、聖地から地中海に追い落とされてしまう。また、この頃から前述の十字軍が内包する矛盾によって広がった厭戦機運に続くようにしてイベリア半島で後ウマイヤ朝を追い出したレコンキスタや東方植民も終焉を迎える。 軍事的に失敗した十字軍遠征ではあったが、戦争によって東西交流はより発展した[7]。ヨーロッパから鉱物資源や毛織物等が、イスラムから香辛料や絹等が、今まで以上に東西間で交易されるようになった。それによってヨーロッパとオリエントの間に位置する東ローマ帝国やイタリア諸都市国家の経済成長が顕著になる。ことにイタリアでは東西交易に伴い、東ローマ帝国の保存していた古代ギリシアの哲学・科学や、イスラム諸国からの当時世界最高水準にあったイスラム文化やイスラム科学が紹介され、しかも十字軍失敗によってローマ教皇の権威が低下し、宗教戒律に疑問を持った人々の中からルネッサンス運動が開始されて近代への扉が開けられた。 モンゴル帝国が興ったころ、東方のキリスト教徒プレスター・ジョンが大軍を率いてイスラムを攻撃するという噂がヨーロッパに広まった。プレスター・ジョン確認のためにローマ教皇や西ヨーロッパ各国は、国情視察も兼ね同盟や交易を求めて東方に使節を派遣した。 そしてプラノ・カルピニの使節はカラコルムに達し、1245年、グユクハーンと謁見を果たした。そこはプレスター・ジョンの国ではなかったが、宗教や異民族に比較的寛容なモンゴル人はヨーロッパ人を受け入れ、パックスモンゴリカの下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に東アジアを訪れるようになり、カラコルムや大都(北京)などの主要都市に長期滞在する者さえ現れた。 中でもマルコ・ポーロは約20年にわたって行われた旅行体験をルスティケロ・ダ・ピサへ口述し、ルスティケロが『東方見聞録』として著しヨーロッパに広まった。イスラム諸国、インド、中国、ジパングについての記述が、プレスター・ジョン伝説とともにヨーロッパ人の世界への好奇心を掻き立てた。 15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン帝国が1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を獲得した。東西の中間に楔を打つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い関税をかけた。旧来の経済秩序[8]が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになる。
定義
前史
文化・文明の伝播
古代の国際交流マケドニア王アレクサンドロス
ヨーロッパの停滞と復興
十字軍
国際交流の発展マルコ・ポーロの旅路
変遷ニーニャ号、ピンタ号及びサンタ・マリア号の復元船
海外征服の開始「重商主義」も参照
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