『大義覚迷録』(たいぎかくめいろく)は、清朝第5代皇帝である雍正帝の時代にまとめられた取り調べの一記録。満洲人が樹立した清朝の正統性を主張する上で用いられた。雍正8年(1730年)に出版されている。 清朝は、満洲人によって建てられた王朝であった。そのため、清朝の統治に対して中国の伝統的な華夷思想(中華思想)からの反発があった。歴代皇帝は、こうした動きに対しては強圧策で臨んだが、それだけでは圧倒的大多数を占める漢民族主体の中国大陸を長期にわたって統治することは困難であり、実力の誇示だけではなく清朝の正統性を論証する必要に迫られていた。『大義覚迷録』は、こうした中で世に示されたものである。 中国とは「華」と(地理的・種族的な意味での)「夷」を含んでいると主張した。そして、有徳で礼節を知り、民衆の生活を安んじることができる人物であれば、たとえ漢民族でない「夷」の出身であったとしても、中華文明を担う皇帝にふさわしいとする考え方を示した。その例として、いにしえの名君として知られる「東夷」の人であった舜や、「西夷」の人であった周の文王を挙げている。雍正帝は、孟子の「舜は諸馮
狙い
成立の経緯(中国語版
内容
雍正帝の後を継いだ乾隆帝は、ジュンガル部・回部を平定して清朝の版図を最大とした。このことは、『大義覚迷録』で示されている中華世界を具現化したともいえる。しかし、乾隆帝は即位直後の雍正13年(1735年)に曾静への罪状をあらためて問うて凌遅刑に処し、『大義覚迷録』も禁書とした。その理由については明らかではない。
脚注^ 孟子曰:「舜生於諸馮,遷於負夏,卒於鳴條,東夷之人也。文王生於岐周,卒於畢郢,西夷之人也。地之相去也,千有餘里;世之相後也,千有餘?。得志行乎中國,若合符節。先聖後聖,其揆一也。」 ? 孟子、離婁下日本語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。孟子/離婁下