大網藩(おおあみはん)は、明治維新期の短期間、上総国山辺郡大網村(現在の千葉県大網白里市大網)に藩庁を置いて存在した藩。1869年、羽前国長瀞藩が分領であった大網に移転して成立したが、1871年に常陸国龍ヶ崎(現在の茨城県龍ケ崎市)に転出して龍ヶ崎藩となった。
歴史.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}千葉東金白浜龍ヶ崎大網 関連地図(千葉県)[注釈 1]
前史「米津氏」および「長瀞藩」も参照
幕末期の長瀞藩は、出羽国村山郡長瀞(現在の山形県東根市大字長瀞)に陣屋を構える1万1000石の小大名であったが、所領は出羽国・上総国・下総国に分散していた[注釈 2][3]。米津政敏は慶応元年(1865年)に藩主となるが、定府の大名であり[3]、藩士の多くも江戸に詰めていた。慶応4年/明治元年(1868年)の戊辰戦争において、長瀞周辺は庄内藩軍と新政府軍の戦場となり長瀞陣屋を焼失[3][注釈 3](天童の戦い参照)、また関東の飛び地領には旧幕府脱走兵が入り込み金品や食糧を要求するなど、藩政は混乱状態に陥った[3]。 明治2年(1869年)春、長瀞藩士は東京を引き払い「一藩残らず」大網村に移転した[3]。大網村は村高2622石(旧高旧領取調帳)・戸数520(上総国村高帳)という大きな村で[5]、多数の領主に分割支配される相給の村であった[5][注釈 4]。米津氏はこのうち1000石余を領しており、支配関係の上で密接な関係を持っていた[6]。大網が移転地とされたのもこうした事情による[6]。なお、大網村(大網宿)[注釈 5]にはこれより先、明治元年(1868年)12月16日に安房上総知県事の柴山典(文平)が移っており、宮谷の本国寺に知県事役所を置いて、房総の旧幕府領・旗本領の統治にあたっていた(宮谷県)[8]。陣屋跡に建てられたと伝えられる旧大網小学校(2012年8月撮影)。背後は中世大網城のあった丘[9]。 明治2年(1869年)6月に版籍奉還を経て知藩事に任命された政敏は、8月に太政官の事務局である弁官に、政敏が大網に「暫時」移住し、長瀞へは執政の者を派遣することの願いを出して許可された[3]。次いで10月22日付で藩の本拠を大網に移転して「大網藩知事」とするよう願いを出し、11月2日付で許可された[3]。これにより大網藩が立藩する[注釈 6]。大網藩は仮藩庁を大網村の蓮照寺
大網への移転と大網藩の成立
明治3年(1870年)4月、大網藩は弁官を通して政府に、分散した支配地をまとめるよう要望を出している[16]。
幕末以来、米津氏の領地(管轄地)については混乱が続いていた。慶応3年(1867年)、当時の長瀞藩は武蔵国埼玉郡内の領地を上地し、その代地として安房国朝夷郡白浜村(現在の南房総市白浜町)が与えられることとなったものの、実際の郷村引き渡しが行われないまま幕府が瓦解し、白浜村は宮谷県管轄地に組み入れられていた[16]。