インドネシアの大統領内閣については「大統領内閣 (インドネシア)」をご覧ください。
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大統領内閣(ドイツ語: Prasidialkabinette)は、ヴァイマル共和政下のドイツで見られた、正当性を大統領の信認のみに依拠する内閣の形態である。1930年4月から1933年1月にかけて、国会の同意なしに首相に任命されたハインリヒ・ブリューニング、フランツ・フォン・パーペン、クルト・フォン・シュライヒャーの3人が率いた内閣がこれにあたる。シュライヒャー内閣はパーペンと手を組んだ国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首のアドルフ・ヒトラーにより倒され、ヒトラーが首相に就任した。
ヴァイマル憲法第48条は、ドイツ国大統領に国会の支持がなくとも内閣の承認のもとで大統領緊急令により緊急措置を講ずる権限を与えていた。ヘルマン・ミュラー率いる大連立内閣が崩壊すると、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は中央党のハインリヒ・ブリューニングを首相に任命した。ブリューニング内閣の連立与党は国会で過半数の議席を抑えていなかったため議会運営は困難を極め、政府提出の法案はほぼ国会を通過できない状態となったことから、その統治はもっぱら大統領緊急令に頼ることになった。しかし、政府が国会の支持を得られなくても、ヒンデンブルクは国会を解散しさえすれば少なくとも解散中はブリューニングを首相官邸に留まらせることができた。
ブリューニングの在任中、ナチ党とその党首アドルフ・ヒトラーはドイツにおいて影響力のある政治勢力として台頭してきていた。ブリューニングはナチ党の準軍事組織(親衛隊および突撃隊)を非合法化したが、ヤング案受諾をきっかけに自身は帝政復古主義者であるにもかかわらず右派から攻撃を受けることに倦んだヒンデンブルクが急進右派との妥協を図ったことからフランツ・フォン・パーペンにすげ替えられた。パーペン内閣は半年ほどの短期政権だったが、その任期中の1932年7月ドイツ国会選挙でナチ党が大躍進し第一党となった。パーペンも国会との対立を克服することができず、クーデターにより国会を停止して大統領権限を強化することを画策するもクルト・フォン・シュライヒャーに制されて退陣した。シュライヒャーが後任となったが、2ヶ月ともたず1933年1月30日にヒトラーが首相に就任した。
大統領内閣は、ドイツ社会における議院内閣制への懐疑から、強力な大統領権限に基づく統治へと政治的パラダイムが大転換した結果であると解釈されてきた。複数政党制において国会の支持なしに統治するというヒンデンブルクの決断が、ヒトラーによる全体主義独裁に繋がるマイルストーンとなったのである[1]。 1919年のヴァイマル憲法は、国家元首として直接選挙で選ばれる任期7年のドイツ国大統領の職を置いた。大統領には国会解散権を含む広い権限が与えられた[2]。また、第48条
背景
ヴァイマル憲法第48条
1928年ドイツ国会選挙ではどの党も単独過半数を確保することができなかった。ドイツ社会民主党(SPD)が第一党となったが、政権与党だった中道右派の諸政党は大きく議席を失ってしまった[6]。SPDのヘルマン・ミュラーがSPDのみならず中央党、ドイツ人民党(DVP)およびドイツ民主党(DDP)の大連立により首相となった[7]。ミュラー内閣の連立与党は国内問題ではまるで共通点がなかったが、ドイツが第一次世界大戦の敗戦で負った莫大な賠償債務を減額するヤング案[8]の受諾を目指す点では一致していた[9]。
ヤング案は1930年3月初旬に国会で承認されたが[10]、連立与党は世界恐慌によってもたらされた社会的・経済的課題に対するアプローチで足並みが揃わなくなった。SPDとDVPの対立は、DVPが重工業の企業主の利益を代表するようになるに及んで遂に修復不能になった[9]。さらには失業給付の構造改革を巡って連立与党間のコンセンサスが崩壊し、1930年3月27日にミュラー内閣は総辞職した[11]。
大統領内閣
ブリューニング内閣1930年頃のハインリヒ・ブリューニング。1930年4月から1932年5月まで、最初の大統領内閣を率いた。
パウル・フォン・ヒンデンブルクは貴族出身の軍人で議会制民主主義にはもとより懐疑的であり[12]、大連立を国会ではなく大統領自身の意に適う保守的な政府に置き換えることを長らく追求していた[11]。これは権威主義政権を志向するシュライヒャーなどの側近と、行き詰まる一方の国会運営の影響であった[13]。ミュラー内閣が総辞職すると、ヒンデンブルクは中央党のハインリヒ・ブリューニングを首相に指名した[11]。大統領府長官であったオットー・マイスナーによれば、ブリューニングは第一次世界大戦の従軍経験があり、ナショナリストとしてドイツ革命に反対の立場をたびたび口にしていたことから極右にも受け入れられやすいと言う点でうってつけの人材であった。その一方で、社会問題に対するブリューニングの姿勢は、ヒンデンブルクが敵視するSPDにとって都合のよいものであった[14]。