大給恒
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 凡例松平乗謨
大給乗謨
大給恒
子爵時代の肖像
時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保10年11月13日1839年12月18日
死没明治43年(1910年1月6日
改名松平乗謨→大給乗謨→大給恒
別名三郎次郎(通称)、亀涯(号)
諡号竜岡
戒名雲在院殿玉釣亀涯居士
墓所東京都渋谷区広尾の香林院
官位従五位下兵部少輔縫殿頭正四位下従二位正二位
幕府江戸幕府若年寄老中、陸軍奉行、陸軍総裁
主君徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
三河奥殿藩主→信濃田野口(竜岡)藩
氏族大給松平家→大給氏
父母父:松平乗利、母:松平乗全
兄弟恒、窈子
石川総貨
子左[1]、芙蓉[2]
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大給 恒(おぎゅう ゆずる)は、江戸時代後期の大名。旧名は松平 乗謨(まつだいら のりかた)。三河国奥殿藩8代藩主、のちに信濃国田野口藩(竜岡藩)主。真次流大給松平家11代。江戸幕府老中格老中若年寄明治維新後は伯爵となる。日本赤十字社の創設者の一人として知られる。
経歴

天保10年11月13日1839年12月18日)、奥殿藩7代藩主・松平乗利の長男として誕生した。幼少時から聡明で知られ、西洋事情にも通じていたとされる。嘉永5年3月8日1852年4月26日)、父の隠居により家督を継いだ。6月7月)には竹橋御門番に任じられた。

嘉永6年(1853年)のペリー来航後、軍備の増強・革新の必要性を悟り、農民兵を徴募して歩人隊を編成した。11月12月)に従五位下兵部少輔に叙位・任官する。万延元年(1860年)には日光祭礼奉行を務めた。文久3年1月1863年2月)に大番頭に任じられ、8月9月)に若年寄に任じられた。9月11日10月23日)、藩庁を手狭な奥殿から、飛び地ではあったが領地の多くが存在する信濃佐久郡の田野口(現在の長野県佐久市田口)に移転し、新たに星形要塞である龍岡城を建設した。

その後は幕政に参与したが、元治元年6月1864年7月)に横浜鎖港問題などで政事総裁職松平直克と対立して若年寄職を罷免された。慶応元年4月(1865年5月)、三河で信濃移転に対する反対運動が起こる。5月6月)には陸軍奉行として幕政への復帰を果たした。その後、7月8月)に若年寄次席、12月1866年1月)には若年寄となり、慶応2年6月(1866年7月)には老中に栄進し、10月11月)からは朝廷との交渉役を務めている。11月12月)に正四位下に昇叙し、12月(1867年1月)には陸軍総裁に任じられた。

この間、藩政ではフランス式の軍制を導入した農民兵を基礎とする非常先手組を編成する一方で、殖産興業や蚕種・生糸の増産など国力の増強にも努めている。慶応4年1月(1868年2月)、戊辰戦争を契機に陸軍総裁職を辞任し、2月3月)には老中職も辞任した。そして幕府との訣別を表明するため、大給と改姓した上で信濃に帰国し、3月4月)には上洛して新政府に帰順する意思を表明したが、新政府では乗謨が幕府の中心人物の一人であったことから謹慎を命じた。4月5月)には新政府の命令に応じる形で北越戦争に出兵し、このため5月に謹慎処分を解かれた。5月28日7月17日)に藩名を竜岡藩と改名する。のちに維新の戦功として賞典金2000両を下賜された。
明治維新後

明治2年6月(1869年7月)、版籍奉還により竜岡藩知事に任じられる。しかし、竜岡藩の財政破綻のため廃藩を申し出て、廃藩置県前の明治4年6月2日1871年7月19日)、廃藩となり知藩事を免ぜられる。7月8月)に名前を松平乗謨から大給恒に改名する。

明治6年(1873年)、メダイユ取調御用掛に任ぜられ、世界の勲章制度に関する調査を命ぜられる。明治8年(1875年)、元老院議官。明治9年(1876年)には、賞勲事務局(賞勲局)副長官に任じられた。明治11年(1878年)、議官兼賞勲局副総裁。

明治17年(1884年)の華族令では子爵に叙せられた。明治21年(1888年)、勲一等。明治23年(1890年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、明治30年(1897年)7月10日まで在任[3]。明治28年(1895年)からは賞勲局総裁。明治37年(1904年)、従二位。明治40年(1907年)には賞勲制度の確立を賞されて伯爵に陞爵。明治42年(1909年2月23日枢密顧問官[4]

明治43年(1910年)1月6日に死去した。享年72。危篤の報が天聴に達すると正二位に叙され、勲一等旭日桐花大綬章を授与された。


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