大管区_(ナチ党)
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大管区指導部Gauleitung

設立1925年
設立者アドルフ・ヒトラー
解散1945年
種類政治団体
法的地位党政治指導部
大管区担当部局
目的全国党管区の統括及び指導
本部 ミュンヘン
褐色館
所在地全国各州・県
最高責任者 大管区指導者
主要機関
管区
他、大管区内の全党組織
加盟 国民社会主義ドイツ労働者党
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大管区(だいかんく、ドイツ語: Gau、複数形:Gaue)とは、国家社会主義ドイツ労働者党の地方組織であり、ナチス・ドイツの事実上の行政区分である。
歴史各大管区の記念章

ミュンヘン一揆の失敗とヒトラーの収監を経て、ナチ党は組織の再編成を行っていた。1925年大管区指導者の称号が作られた。

1928年までに大管区指導者はナチ党内の階級にもなり、最終的に全国指導者の次席となった。

ナチ党の権力掌握後は大管区指導者の多くが国家代理官: Reichsstatthalter)に任命され[1]、ナチ党による全国支配を実行することとなった。

さらに1934年に、ドイツ国再建に関する法(ドイツ語版)の成立に基づき、それまでの行政区分である州(ラント、: Land、複数形: Lander)の機能をナチス・ドイツ政府が一時停止したことに伴って、国家の行政区画としての機能を始めた。

第二次世界大戦勃発後の1939年9月には国防管理官を兼任し、地域防衛の責任者となったことでさらに権力は大きくなった。1939年の大管区記章一覧

ナチス・ドイツが滅びる1945年までに、合計で43の大管区が設置された[2]。その中には、オーストリアチェコスロヴァキアポーランドフランスなどの占領地域に設置された10個の帝国大管区と、大管区扱いとされた外国組織部(ドイツ語版)(ドイツ語: Auslandsorganisation der NSDAP、略称:NSDAP/AO)が含まれる。大管区と帝国大管区に実際の機能の差はほとんど無く、都道府県の名称の違いと同様に考えればよい。
ナチ党組織としての大管区全国における大管区の範囲

大管区はナチ党の地方組織の最大単位であり、ドイツ国内・国外(ザールラントオーストリア等)を国会議員選挙区に対応する30数個に分け、その下には、管区(Kreis)、地区(Ortsgruppe)、拠点分区(Stutzpunkt、1939年廃止)、細胞(Zelle)、街区(Block)と呼ばれる単位が設置されていた。最少単位の街区は約50の世帯から構成されていた。
大管区指導者詳細は「大管区指導者」を参照

大管区指導者(ドイツ語: Gauleiter)とは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の役職・身分で、ナチ党の地区区分である大管区の指導者を指す。ナチズム下のドイツにおいては地方の最高権力者として扱われ、後に設置される帝国大管区においても大管区指導者が設置された。
大管区と州の関係ヴァイマル共和政から引き継いだ行政区画である連邦州

ワイマール共和国から引き継いだ旧来の州(ラント)も、ドイツ国再建に関する法(ドイツ語版)によって州議会は解散され、大管区指導者の多くが国家代理官に任命されたものの[# 1]、ナチス・ドイツ時代を通じて廃止されたわけではなく、大管区と並存し続けた。州を廃止する計画は存在したが、アドルフ・ヒトラーは、地域政党の指導者たちに混乱を引き起こすことを避けたため、帝国改革(ライヒスレフォルム、: Reichsreform)と呼ばれたその構造改革を実行しなかった。

同様の理由から、大管区の境界も同様に変更されることは無かった。大管区はナチス・ドイツが巨大化していくに従って大きくなっていった[3]。一方で州もまた存続したが、実権は大管区指導者が握ったため、州首相: Ministerprasident)は形式的な職責であった。

大管区指導者は、ヒトラーによって直接任命され、総統たる彼にのみ責任を負った。しかし、実務面ではヒトラーからの干渉は無いに等しく、彼らは絶対的な権力者として大管区に君臨した[1]

第二次世界大戦勃発後の1939年9月1日には、政府評議会が出した命令によって、18の軍管区(ドイツ語版)に所属する18人の全国防衛委員(国防管理官)が大管区指導者より任命され、地域防衛の責任者となったことで、さらに権力は大きくなった[4]。さらに、すべての大管区指導者が1942年4月6日に大管区労働配置管理官に任命され、11月16日には全国防衛委員へ任命された[5]
帝国大管区詳細は「帝国大管区」を参照

帝国大管区は、1938年から1945年ナチス・ドイツによって、主に併合された領土により構成され、設置された行政区分の名称である。また帝国大管区の大管区指導者は全員が国家代理官を兼任し、大管区と政府行政が最大限に近接していた[5]
大管区の一覧左上より1926年、1928年、1933年、1937年、1939年、1943年の大管区1944年の大管区・帝国大管区の領域を示した図
43大管区[6]

1925年から1945年にかけて大管区の設置、廃止、合併が行われた。最終的には43の大管区が存在した。
バーデン=エルザス大管区: Gau Baden-Elsass der NSDAP)
大管区都:カールスルーエ(1925年 - 1940年)、シュトラースブルク(1940年 - 1945年)。バーデン共和国の領域から構成される大管区。1925年3月に設置され、当初はバーデン大管区: Gau Baden der NSDAP)であった。1941年3月22日にアルザス民政地域(アルザス地域圏オー=ラン県バ=ラン県)を統合し、バーデン=エルザス大管区に改称した。この大管区は、オーバーライン帝国大管区に改称する計画があった。
歴代大管区指導者


ロベルト・ヴァーグナー(ドイツ語版)
 (1925年3月22日 - 1945年5月8日

ヴァルター・ケーラー(ドイツ語版)、職務代行
 (1933年1月 - 1933年


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