大竹伸朗
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獨協大学教員の大竹伸郎とは異なります。

大竹伸朗
生誕 (1955-10-08) 1955年10月8日(67歳)
東京都目黒区
国籍 日本

大秩B伸朗(おおたけ しんろう、1955年10月8日 - )は、日本現代美術家。
経歴 「はいしゃ」(直島家プロジェクト

1955年10月8日、東京都目黒区に生まれる。1957年大田区南六郷に転居。六郷水門、多摩川巨人軍練習場、江崎グリコ工場などが、当時の思い出とともに東京の原風景となる。物心ついた頃には身近にテレビがあり、昭和30年代に吹き替えで放映されていた「名犬ラッシー」、「うちのママは世界一」、「ポパイ」、「ブロンコ・シャイアン」、「とつげき!マッキーバー」等のアメリカのテレビ番組を好んで視聴し、大きな影響を受ける[1]

1962年、大田区立六郷小学校入学。この頃、漫画家になることを決意。第1作目は野球漫画「がんばれ!三ちゃん」。8歳年上の兄とともにレコード店に通い、アメリカン・ポップスや和製ポップス、民族音楽風の民謡などを聴き、音楽に興味をおぼえる。1964年、練馬区立谷原小学校に3年生の二学期に転入。担任を洋画家篠原昭登が受け持つ[2]。その頃、『少年マガジン』に連載されていた漫画『紫電改のタカ』のカラー図版を用いて、初めてのコラージュ作品《「黒い」「紫電改」》を制作。1965年練馬区谷原に転居。隣駅の西武池袋線富士見台駅近郊にあった虫プロダクションに絵を持って通い、スタッフから絵の指導を受けたりセル画を貰う。兄の影響でビートルズを知る[1]

1968年練馬区立石神井東中学校入学。サッカー部に入る。兄を通じて海外のサウンドトラック・レコードやファッション、アート系の雑誌に影響を受ける。東京国立博物館の展覧会「レンブラント名作展」で油絵に興味を持ち、岡鹿之助の『油絵のマティエール』をテキストにして独学で油絵を始める[1][3]

1971年東京都立大泉高等学校入学。サッカー部に入る。近所の絵画教室に週1回程度通う。兄に頼まれて購入した『現代の美術4 ポップ人間登場』(講談社)でアンディ・ウォーホルデイヴィッド・ホックニー、ロナルド・B・キタイ(英語版)、アレン・ジョーンズ(英語版)、エドゥアルド・パオロッツィリチャード・ハミルトンフランシス・ベーコンらの作品を知り、画家という存在に初めて強いリアリティを抱く[1]

1974年東京芸術大学美術学部絵画科(油画)を受験し不合格となる。4月、武蔵野美術大学造形学部油絵学科に補欠入学。4月21日に同大学を休学して北海道別海町のウルリー牧場へ行き、同牧場で「無給、無休、住み込み」という条件で働く。年末、漠然と海外行きを決意する。1975年、1月から3月にかけて北海道内を撮影、スケッチして歩く。4月、東京に戻り、大学に復学ボブ・ディランをモデルに、初めての立体作品《男》を制作[1]

1977年5月、大学を休学して渡英。ロンドンに滞在し、スケッチや写真撮影をする。6月、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの卒業展でラッセル・ミルズ(英語版)の作品に出会う。8月、英国のポートベロー(英語版)の蚤の市で、マッチのラベルを貼り込んだノートブックと大量のマッチラベルを購入し、このラベルでコラージュ・ブックの制作を始める。11月、ラッセル・ミルズに面会し交際が始まる。12月、デイヴィッド・ホックニーに面会、翌年4月まで絵を見てもらうようになる[1]

1978年5月、帰国して大学に復学。リトグラフ、オフセットなど、印刷印画紙やフィルムによる作品に興味を持つ。ノイズ・ユニット「JUKE/19.」の始まりとなる音楽活動を、中学時代の後輩と開始。ブライアン・イーノのプロデュースにより同年に発売されたコンピレーション・アルバム『NO NEW YORK』に参加したバンドの殆どすべてから影響を受ける[1]

1979年9月、初めての香港旅行。10月、第4回ロットリング・イラストコンテストで最優秀賞を受賞。11月、作品を見てもらった黒田征太郎から紹介された『野性時代』のカットの仕事で、自身の名前が初めて活字となった。同月、池袋にオープンした「スタジオ200」のオープン記念ポスター装画に作品が採用される。これが最初のポスターの仕事となる[1]

1980年3月、武蔵野美術大学油絵学科を卒業。4月から8月までロンドンに滞在。再びホックニーのスタジオに通った[4]。6月、ノートルダム・ホール(英語版)にて、ブルース・ギルバート(英語版)、グラハム・ルイス(英語版)、ラッセル・ミルズ、大竹の4人でサウンド・パフォーマンスを行う。8月から10月にかけてパリと香港にも滞在。10月、「JUKE/19.」を結成。スタジオ録音、ライブ活動を始める。12月、1枚目のアルバム『JUKE/19.』を発売[1]

1981年、JUKE/19.としてシングル盤1枚とアルバム2枚を発表。JUKE/19.のライブも行う[1]

1982年、最初の印刷本となる「PSYCHEDELIC MAGAZINE LTD. vol.1 Presentation Issue」を刊行。9月、4枚目のアルバムを発表後にJUKE/19.は自然消滅。12月、初個展「大竹伸朗 個展」(ギャルリーワタリ、東京)[1]

1983年ニューヨーク、香港、ロンドン、ナイロビなどに滞在。作品はカンヴァス下地に印刷物や紙を貼り込む手法が以前より更に強まる[1]

1984年3月、個展「大竹伸朗1983-1984」(ギャルリーワタリ、東京)。5月から9月にかけて京都を複数回訪れる。京都的な風景に愛憎入り混じる感覚を覚え、初めて「日本景」について考える機会になる[1]

1985年2月、個展「大竹伸朗 ペインティング/コラージュ」(コンコース・ギャラリー、ICA、ロンドン)。5月、個展「大竹伸朗 放浪する言語」(ジェノヴァ)。6月、ラッセル・ミルズとユニット「オンリー・コネクト」を結成、パフォーマンスを行う[1]

1986年、初の画集『《倫敦/香港》一九八〇』を用美社から出版。同書の豪華版が、同年の造本装幀コンクールで日本書籍出版協会理事長賞(豪華本部門)を受賞。


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