この項目では、渤海の創始者について説明しています。韓国のテレビドラマについては「大祚榮 (テレビドラマ)」を、韓国の駆逐艦については「大祚栄 (駆逐艦)」をご覧ください。
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出典検索?: "大祚栄"
高王 大祚栄
渤海
初代王
王朝渤海
在位期間698年 - 719年4月2日
都城旧国
諡号高王
生年不詳
没年開元7年3月8日(719年4月2日)
父乞乞仲象
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大 祚栄(だい そえい[1])は、渤海の初代王。靺鞨族[1]。契丹の反唐活動に乗じて、高句麗遺民と靺鞨族とを統合し、高句麗の故地に渤海を建国した[1]。唐から与えられた称号は渤海郡王であり、忽汗州都督府都督の官職を受けた。 万歳通天元年(696年)に営州地方(現在の遼寧省朝陽市)で父の乞乞仲象と共に自立を画策し、聖暦元年(698年)には自立の動きに反対する武周軍を破って震国を建国した。金毓黻は、粟末靺鞨出身の大祚栄集団が営州に移された理由は、高句麗滅亡前に突地稽
概要
武周は震国を牽制するために、大祚栄に官職を与える懐柔策や、軍事的な圧力を加えることで緊張関係が継続していたが、神龍元年(705年)には復活した唐の招安に応じ、唐臣としての地位を確認、唐も結局先天2年(713年)に「渤海郡王」の称号を与え、同時に忽汗州都督府都督を兼任することで正式に冊封体制に組み込まれるに至った。
外交関係としては、唐との修好関係以外に突厥、契丹、新羅、日本との外交関係も構築し、海を隔てた日本を除く4ヶ国との緩衝国家としての地位を評価する説も存在している。
開元7年(719年)に薨去、その地位は次男の大武芸が継承した。
現代の永順太氏一族は大祚栄の父・太仲象(乞乞仲象)を始祖として崇めるため、集姓村の慶尚北道慶山市南川面松栢里渤海村に大祚栄を祀っている[4][5]。 渤海建国者「大祚栄」は、本名が「祚栄」であり、本来姓氏がなく、後に尊称として渤海王族の姓氏「大」を名乗った。 699年、大祚栄は靺鞨国王として自立し、尊称「da(古代ツングース語で酋長を意味する)」から渤海王族の姓氏「大」をつくり、その姓を名乗った。
姓名
契丹語・遼史学者の愛新覚羅烏拉熙春の研究によると、契丹文が「東丹国」と「渤海国」とを同時に言及する際には、「東丹国」には「dan gur」を用い、「渤海国」には「mos-i gur」を使用する。「dan gur」は、契丹人の渤海の故地に対する旧称であり、「mos-i gur」は渤海王族の姓氏「大」の意訳を使用してその国を指したものである[7]。形容詞「大きい」は、契丹語には二種類の文法的形式があり、男性形は「mo」、女性形は「mos」、「mos-i」は、文法的変化語尾「-i」を帯びる女性形であり、契丹人が北宋に対し正式な国号「su? gur(宋国)」を使用するとともに、非正式的な他称「?iaugu-i gur(漢兒国。「?iaugu-i」、本義は「趙国」。北宋皇帝の姓氏「趙」を用いてその国を指す)」をも用いる方法と同様である[7]。「mos-i gur」の解読の結果が示すところでは、渤海王族の姓氏「大」は渤海本族語ではない可能性がある。渤海王族の姓氏「大」の採用は、祚栄が開国して王となって以後であるが、かかる情況は契丹人は本来姓氏がなく、遼太祖が家を変じて国と為してのち居住地の名「耶律」を姓氏とした歴史と酷似する[8]。渤海王族の姓氏「大」が渤海本族語であるならば、契丹人は音訳形式でこの単語の発音を綴るはずであり、契丹語の形容詞「mos-i」を用いて意訳する必要はない[8]。また、「祚栄」自身の名および後継の渤海歴代国王の名はみな漢語であり、漢文化浸潤の程度が契丹人より遥かに甚だしかったことがわかる[8]。
漢文[7]契丹文[7] 大祚栄や渤海国の成り立ちに関して『旧唐書』は「渤海靺鞨の大祚栄、本は高麗の別種なり」(渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也)と記し、『新唐書』はより具体的に「本来高麗に付いていた粟末靺鞨の者で、姓は大氏である」(渤海、本粟末靺鞨附高麗者。姓大氏)とする。 ツングース系民族[9]の靺鞨であると日本の学界では広く受け入れられており[10]、「高句麗に居住していた靺鞨人[11]」「かつて高句麗に属していた粟末靺鞨人[12]」「高句麗に帰化していた靺鞨人[13]」「高句麗に同化していた靺鞨人[13]」「高句麗に付属した粟末靺鞨族[14]」「高句麗に移住してきた粟末靺鞨[15]」といった見解が好まれる。
正式な国号非正式な国号
遼国、契丹国kita-i gur(契丹国)
宋国su? gur(宋国)?iaugu-i gur(本義 : 趙氏国)
渤海国dan gur(「丹」国)mos-i gur(本義 : 大氏国)
渤海国→東丹国dan gur(「丹」国)
出自