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大社 義規
おおこそ よしのり
生誕 (1915-02-01) 1915年2月1日
日本・香川県大川郡津田町
死没 (2005-04-27) 2005年4月27日(90歳没)
日本・兵庫県
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大社 義規(おおこそ よしのり、1915年2月1日 - 2005年4月27日)は、日本の実業家。日本ハム創業者で元社長。香川県大川郡津田町津田(現・さぬき市)出身。 1934年、家の没落で旧制高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)を中退した。叔父経営の養豚組合に就職したのち1942年に日本ハム株式会社の前身母体となる「徳島食肉加工工場」を徳島市で設立。その後戦災による工場焼失、1951年に株式組織とし「徳島ハム株式会社」の設立を経たのち大阪市浪速区に拠点を移し、「鳥清ハム」との合併を経て1963年に日本ハムに商号を変更、ハム・ソーセージを中心とした食肉加工のトップメーカーに成長させた。この頃、取材に訪れた業界紙「日本加工食品新聞」の小菅留治編集長と知り合い、その後長きに渡って交流する。小菅編集長は後の藤沢周平で、大社は藤沢の小説は全て読破する熱烈なファンであった。その交流はお互いの晩年まで続いたという。 1973年には旧制高松中(現・高松高校)の先輩である三原脩の勧めにより日拓ホームフライヤーズを買収し、公募で決定した新ニックネームをつけ「日本ハムファイターズ」としてプロ野球に参戦。オーナーに就任し、チームの躍進とともに企業のイメージアップにつなげた。大社は三原を球団社長に、三原の娘婿である中西太を監督に招聘している。1981年には大沢啓二監督の指揮のもと1962年の東映時代以来19年ぶり、日本ハムとしては初めてのパシフィック・リーグ優勝を果たす。 2002年の狂牛病対策による農林水産省の制度を悪用した牛肉偽装事件の影響で経営から身を引き、第一線からも退いた。晩年の大社は大変な巨漢であったという。2005年4月27日午後5時45分、大社は兵庫県の病院にて心不全のため死去した。90歳没。その後は甥で大社の養子の大社啓二が日本ハムの取締役、北海道日本ハムファイターズオーナーを引き継いでいた。 大社は、広島東洋カープのオーナーだった松田耕平とともに球界きっての野球好きのオーナーとしても有名であった。
来歴・人物
野球好きに関するエピソード
日本ハムのオーナーとなる事が決まった際、同業者からは球団を持つ事に対して「そんな金がかかる事やめな!」と多くの反対があったものの、大社は意志を曲げなかった[1]。