大石スク
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おおいし スク
大石 スク
大石スクと2度目の移転後の札幌保育園。
1923年(大正12年)。
生誕田中 スク
(1880-05-02) 1880年5月2日[* 1]
岩手県八幡村
死没 (1925-05-12) 1925年5月12日(45歳没)
北海道札幌市
国籍 日本
活動拠点北海道
後任者戸津高知
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大石 スク(おおいし スク、1880年明治13年〉5月2日[1][2][* 1] - 1925年大正14年〉5月12日)は、日本社会事業家[1][2]北海道札幌市で初めての保育所である札幌保育園(2018年〈平成30年〉に認定こども園に移行して「さっぽろこども園」と改称)の設立者[5]。北海道の保育事業のさきがけとされる[1][2]
経歴

1880年(明治13年)、岩手県八幡村(後の花巻市)に誕生した。北海道岩内へ移転後、岩手県盛岡出身の男性と結婚し、3女1男の子宝に恵まれたが、結婚から10年後の1908年(明治41年)に、夫が35歳の若さで病死した[6]

スクは4人の子供の教育環境や生活環境を整えるため、1916年(大正5年)、当時繁栄していた土地として、倶知安町へ移転した。倶知安では、妻たちは家族の衣類を作るために和裁を習うことが常であり、スクは和裁に長けていたこともあって、近隣の女性たちに和裁を教え、生活費を捻出した。この場は「大石塾」「大石裁縫塾」[6]「大石裁縫教授所」などと呼ばれた[7]。スクはこの塾の女性たちとの交流を通じて、子育ての大変さ、仕事を持ちながら家事をこなすことの大変さ、女性に対する社会からの偏見や差別などを知った[6][7]倶知安大石裁縫教授書所。前列右から4番目が大石スク。1918年(大正7年)3月。

倶知安では同時期に、女学校建立の気運が高まっていた。スクも小さいながらも裁縫塾を営む身であり、女性の自立を助けるべく、近隣にあった女学校を訪ねるなどして、学校経営の勉強を始めた。実際には建物建設の費用など金銭面、人員の確保など問題は多かったが、スクは「女性のために」との強い思いを抱いていた[7]。1920年(大正9年)、裁縫塾を発展させて、スク念願の「倶知安裁縫学校」が設立された[6][8][* 2]
保育事業

この同時期、スクの長男(末子)である武司(後述)が、札幌郡(後の札幌市)の中学で寄宿生活を始めたが、彼は幼少時より病弱で虚弱体質で、何度も体調を崩した。スクは連絡を受けるたびに、片道2時間をかけて札幌を訪れた。やがて「子供を1人で札幌へ置いてはいけない」と考え始めたが、裁縫学校の事業を放置することもできず、自分のできることを自問自答し始めた[9]

当時の札幌には、生活のために農業などで働く女性が多かったが、そうした女性たちが働いている間に子供を安心して預けられる場所は少なかった。夫を失った後に女手一つで子供たちを育てたスクは、彼女らの辛さを痛感した。札幌へ通うたびに目にしていた、貧しい人々「サムライ部落[* 3]」の存在も、子育てに関するスクの思いを強くした[11]。こうしてスクは、「札幌で保育事業を始める」との結論に至った。

日本赤十字社の主催による児童養護講習会を受講し、賛同者や協力者を集めて資金を募るなど、準備を進めた[12]。保育所としての建物は、少しでも安価な物件をと捜していた末に、札幌南1条に夜な夜な幽霊が現れると噂されて「お化け屋敷」の通称で呼ばれる建物があり、そこを無料で借りられることになった[12][13]。この建物のある豊平町は、社会運動家の賀川豊彦が「日本中で一番の貧困街」と称したほどのドヤ街であった[3]
保育園の開園札幌保育園開園当時。右端がスク、左端が四女の妙子。1922年(大正11年)11月頃。

1922年(大正11年)11月4日、待望の札幌保育園が開園した。開園式は当時の札幌の有力者たちも集い、盛大に行われた。当時の新聞の取材に対し、スクは以下の通り述べた[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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