大相撲優勝力士一覧
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百科事典に相応しくない内容の増大は歓迎されません。内容の整理ノートで検討しています。(2020年6月)

大相撲優勝力士一覧(おおずもうゆうしょうりきしいちらん)とは現在成績と番付がたどれる江戸時代からの江戸相撲本場所の幕内最高成績力士の一覧である。
総説

大相撲の幕内最高優勝については、大きく3期に分けることができる。

まず、勧進相撲の中から自然発生的に始まった江戸時代から明治時代に至るまでは、いかなる形でも個人の成績優秀者への顕彰制度はなかった。しかし番付と星取は概ね完全な形で現存しているので、「当時から優勝制度が存在していたら表彰されていたであろう力士」を遡って推定することができる。

第2期は1909年6月場所以降である。この場所から常設の興行場所として旧国技館が開館して、当場所から新聞社による最高成績力士への優勝額の贈呈が始まった。一方で協会による表彰は同場所から始まった東西制によって優勝旗の授与が行われていたが、優勝旗手となるのは東西で勝ち越した片屋に所属しており、なおかつ関脇以下でなければならないため、全体での最優秀力士ではないことが多かった。

幕内最高優勝に対する公的な表彰は1926年1月場所から、天皇賜杯の下賜を機に始まった[1]。東西制はその後廃止されたため、幕内最高優勝の力士が賜杯および優勝旗を授与されることとなり、名実ともに唯一の表彰対象となっている。
優勝力士の決定方法

原則は、勝ち数と負け数の差が一番多い力士を優勝としている。江戸時代においては勝負の他に引分預り無勝負が存在し、相手力士が当日休場した場合は自身も休場扱いとなり、また千秋楽は幕内力士は原則として全員休場となる慣例もあった。これらの影響が優勝争いに影響を与える可能性があるため、前後して取り直し不戦勝を取り入れた。今日では休場した当人以外はほぼ勝ちと負けのみになるようになった。

勝敗差が同点の場合は番付上位者を優先していたが(番付上位者優勝制度)、1947年6月場所から優勝決定戦で同点者全員が対戦するようになり、番付下位者でも自力優勝のチャンスが生まれた。

江戸時代へ遡って推定するときには、優勝決定戦は当然行われていないので番付上位者を優勝相当とする。ただし、番付の東を上位とするのは東西制実施にあたっての決定であるので、そこへの配慮をしなければならないという意見[2]もある。
優勝回数

優勝回数は、慣例として優勝額贈呈開始以降を対象としており、本記事もそれに従っている。それ以前の優勝相当回数を含めると常陸山谷右エ門が6回、太刀山峯右エ門が2回分足すことができるが、ここでは含めない。
このセクションの注^ 大空出版『相撲ファン』vol.06 p102
^ 『大相撲』1972年1月号の優勝力士総覧

優勝制度導入以前

四股名の()内は同成績者。
宝暦年間(1757年 - 1764年)

場所番付四股名成績備考
1757年(宝暦7年)10月(不明)(不明)(不明)番付が現存するのみで、勝敗記録は現存せず。
1758年(宝暦8年)3月
1758年(宝暦8年)10月
1759年(宝暦9年)3月
1760年(宝暦10年)10月
1761年(宝暦11年)10月西前2戸田川7勝1敗
1762年(宝暦12年)3月東大関荒瀧5勝0敗3休
1762年(宝暦12年)10月(不明)(不明)(不明)番付・勝敗記録共に現存せず。
1763年(宝暦13年)4月東関脇荒瀧6勝1分1休
1763年(宝暦13年)10月西前2艫綱6勝1敗1分1休
1764年(宝暦14年)3月東小結雪見山(艫綱)5勝0敗1無勝負1預1休艫綱は西小結で6勝1敗。
後年の様に東方上位の考え方はまだなかったとして、両者優勝相当とする場合もある。

明和年間(1764年 - 1772年)

場所番付四股名成績備考
1764年(明和元年)10月東前4押尾川6勝1敗1休
1765年(明和2年)3月東小結出水川7勝0敗1分
1765年(明和2年)10月西前3関ノ戸6勝0敗2無勝負
1766年(明和3年)3月東小結出水川5勝0敗1分1預1無勝負
1766年(明和3年)10月西前1越ノ海6勝0敗1分1預
1767年(明和4年)3月東関脇岩見形7勝1敗
1767年(明和4年)10月東小結出水川7勝0敗1分1休
1768年(明和5年)9月西関脇関ノ戸5勝0敗1無勝負2休
1768年(明和5年)11月西関脇?友綱(雪見山)6勝0敗1分1無勝負番付は現存せず。
1769年(明和6年)4月西前2越ノ海6勝0敗1休7日目の星取りに欠。西大関伊達ヶ関、西小結関ノ戸に同点の可能性あり。
1769年(明和6年)10月西前1越ノ海(稲川)7勝1敗
1770年(明和7年)3月西関脇関ノ戸7勝0敗1分
1770年(明和7年)11月東大関釋迦ヶ嶽
(関ノ戸、達ヶ関)6勝0敗1預1休達ヶ関はもと伊達ヶ関、のちの谷風
1771年(明和8年)3月西大関釋迦ヶ嶽(関ノ戸)6勝1敗1休
1771年(明和8年)10月西前4戸田川7勝1敗
1772年(明和9年)春???開催されず。

安永年間(1772年 - 1781年)

場所番付四股名成績備考
1772年(安永元年)11月西小結達ヶ関6勝0敗2休
1773年(安永2年)3月東関脇釋迦ヶ嶽6勝0敗1分1休
1773年(安永2年)10月東小結雲井川(関ノ戸)3勝0敗1無勝負4休関ノ戸は西小結で3勝0敗1預4休。両者優勝相当とする場合もある。
1774年(安永3年)4月西前1達ヶ関6勝0敗2休
1774年(安永3年)10月西前3稲川6勝0敗1預1休
1775年(安永4年)3月西小結達ヶ関4戦全勝
1775年(安永4年)10月西前3稲川6勝1敗1無勝負1休
1776年(安永5年)3月???虫害による飢饉のため中止。
1776年(安永5年)10月西小結谷風7勝0敗1無勝負この場所から達ヶ関より改め。
1777年(安永6年)4月西前3稲川6勝0敗1無勝負1休
1777年(安永6年)10月西小結谷風5勝1敗1分1預
1778年(安永7年)3月西関脇谷風9勝0敗1休初日から63連勝始まる。
1778年(安永7年)11月東前3笘ヶ嶋8勝0敗1無勝負1休


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