大異教軍
[Wikipedia|▼Menu]

大異教軍

865年から878年にかけての大異教軍の進路

時865/6年?878年
場所イングランド, イギリス
結果ノース人による北・東イングランド征服
ウェセックス王国の独立維持

衝突した勢力

アングロ・サクソン人

イースト・アングリア王国

ノーサンブリア王国

マーシア王国

ウェセックス王国

ノース人

デーン人

スウェーデン人

ノルウェー人

フリース人

指揮官
エドマンド殉教王 
エッラ(英語版) 
ブルグレッド(英語版)
エゼルレッド
アルフレッド大王骨無しのイーヴァル
ハールヴダン・ラグナルスソン
グズルム
戦力
不明千人未満-数千人
被害者数
不明不明

大異教軍(だいいきょうぐん)、大異教徒軍(英語: Great Heathen Army、古英語: mycel haten here)、大軍勢(英語: Great Army)または大デンマーク[注釈 1]軍(英語: Great Danish Army)とは、865年もしくは866年[注釈 2]に、キリスト教徒アングロ・サクソン人が治めるイングランドに侵攻したノース人ヴァイキング)の軍勢のことである。イースト・アングリア王国マーシア王国ノーサンブリア王国を打倒し、ウェセックス王国を滅亡寸前まで追い込み、イングランドのほぼ全域を征服した。現代のデンマークに居住していた人々を中心に、スカンディナヴィア半島フリースラント西フランク王国などヨーロッパ各地にいたヴァイキングによる大連合軍であった。
概要

8世紀後半から、イングランド沿岸ではヴァイキングの名で知られるノース人海賊が、修道院などの富の集積地への襲撃を繰り返していた。そうした襲撃とは異なり、大異教軍は遥かに大規模で、イングランドの広範囲を征服することを目的としていた。

アングロサクソン年代記は大異教軍の動機について触れていない。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}それはおそらく、ヴァイキングの襲撃と略奪があまりにも日常茶飯事だったからである。[要検証ノート]『ラグナルの息子たちの物語(英語版)』(Ragnarssona tattr)では、大異教軍の侵攻は、スウェーデンとデンマークの支配者だった伝説的なヴァイキングであるラグナル・ロズブロークがイングランドで殺害されたことによる報復戦だったとしている。ヴァイキングのサガによると、ラグナルはノーサンブリア王エッラ(英語版)に捕らえられ、多数の蛇が入った穴に投げ込まれて処刑された。その知らせを聞いたラグナルの息子たちが、復讐のための遠征行を企てたのだという[3][信頼性要検証]。しかし、これが史実であるという証拠はない[4][5]。キャサリン・ホルマンは『Historical dictionary of the Vikings』(2003年)の中で「ラグナルの息子たちは歴史的人物であるが、ラグナル自身が実在したという証拠は存在しない。」と結論づけている[6]

「大異教軍」という名はアングロサクソン年代記の865年の項に由来する。指導者はラグナル・ロズブロークの息子たち、具体的にはヴィトセルク(英語版)、骨無しのイーヴァルハールヴダン・ラグナルスソン、そしてウッバ(英語版)もしくは剛勇のビョルンだったとされる。14年にわたったイングランド侵攻は、その正確な兵力は分かっていないものの、少なくとも同様の侵略の中では最大規模だったと考えられている。

大異教軍は最初865年にイーストアングリアに上陸し、エドマンド王に和平の見返りとして軍馬を提供させた。彼らは865年の冬をセットフォード(英語版)で過ごし、866年11月にヨールヴィークに向け北上した。現在のヨークにあたるヨールヴィークは、ローマ帝国が建設したエボラクムに起源をもち、アングロサクソン時代にはエオフォルウィクと訛って貿易港として栄えていた。

868年中に、大異教軍は一旦南下してマーシア王国の奥深くまで侵攻し、ノッティンガムで越冬した。マーシア人との協定により869年から870年の間にヨールヴィークに引き返した大異教軍は、さらにイーストアングリアまで戻って王を殺害し、セットフォードで越冬した。

871年、大異教軍はウェセックス王国に侵攻し、アルフレッド王から退去税を得た。872年にはロンドンへ侵攻し、873年にノーサンブリアに戻った。874年にはマーシアに再侵攻して征服し、レプトンで冬を越した[7]。この時点で、未征服のまま生き残っているアングロサクソン勢力はウェセックスのみとなった。一時はアルフレッドを追い詰めたものの、エディントンの戦いで敗北を喫し、ウェセックス征服はならなかった。しかし和平協定で、ヴァイキングはイングランドの大部分の征服地に留まることが認められた。
背景
ヴァイキングのイングランド攻撃

ヴァイキング[注釈 3]のイングランド襲撃は8世紀後半から、主に修道院を標的として始まった[9]。『アングロサクソン年代記』は、787年の項[注釈 4]で最初のヴァイキングとの対決を以下のように記している[1][10]

787年 - この年、バートリック王がオファ王の娘エアドブルガを妻とした。ノース人の3隻の船がHaretha-landから到来した。代官がその地に駆け付けたが、彼らが誰なのか分からなかったので、彼らを王の町に連れて行こうとした。そして彼らはそこで彼(代官)を殺した。これはイングランドの国々に現れた最初のデーン人だった。

この事件は多くの歴史家から、最初のイングランドに対する襲撃とみなされている[11]。エゼルウェルド(英語版)版の『アングロサクソン年代記』は、代官は到来者たちに厳然とした態度で接したために殺されたのだと述べている[11]

793年1月8日、北東岸のリンディスファルネ(リンディスファーン島)の修道院がヴァイキングに襲撃された[12]。『アングロサクソン年代記』はヴァイキングを「異教徒の男たち」と記している[13]。修道院や教会は、小さくて高価な宝物を多く持っているためよく襲撃の対象となった[14]。アングロサクソン年代記840年の項では、ウェセックス王エゼルウルフがチャーマウスに上陸した35隻のヴァイキング軍団に敗れたことが記録されている[15][16]。『サンベルタン年代記』でも、同じ事件について以下のように述べている。

ノース人たちは、ブリテン諸島に対する大規模な攻撃を仕掛けてきた。3日に及ぶ戦闘の末、ノース人が勝者となり、各地で略奪や殺人の限りを尽くした。彼らは彼らの望む地で猛威を振るった[17]

この挫折にもかかわらず、エゼルウルフはヴァイキングとの戦いである程度の成果を挙げた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:78 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef