大田原氏
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}朧月(おぼろづき)[1]・丸に釘抜(まるにくぎぬき)
九曜(くよう)[2]・虎杖(いたどり)[3]
本姓丹治姓阿保氏
称・在原氏
家祖大俵忠清
大田原氏(おおたわらし)は武家・華族だった日本の氏族。古くは「大俵氏」とも書かれた[5]。中世以来下野国大田原を本拠とした豪族で、江戸時代にも大田原藩主家として続き[5]、明治維新後、華族の子爵家に列した[6]。 家伝によれば武蔵国阿保郷に住した備前守忠清を祖とし、その子孫が後に下野国那須の大俵に移住して「大俵」を称し、14代資清の代に「大田原」に改姓したという[7]。 中世以来、那須氏の有力部将那須七騎の一家として活躍した[5]。天文12年(1543年)には大田原資清が大田原城を築城している[8]。 天正18年(1590年)の小田原征伐の際に主家の那須家は豊臣秀吉のもとに参陣しなかったため所領を没収されたが、大田原城主大田原晴清は参陣したため所領を安堵されている[8]。 その後関ヶ原の戦いで東軍に属したことで徳川家康より加増されて小大名に列し、江戸時代を通じて1万1417石の大田原藩主家として続く[5][8][7]。 戊辰戦争では官軍に属したが、会津藩兵によって城下を焼き払われる被害を受けた[5]。戦後、官軍への貢献により賞典金5000両が下賜された。 明治維新後、華族の子爵家に列せられた[6]。。 『寛永諸家系図伝』によれば、武蔵七党の丹党の一族で武蔵国榛沢郡阿保郷を本拠とする阿保氏の分流とされる。 『寛政重修諸家譜』の添書及び稲毛田大田原家に伝わる『大田原宗家家譜』によれば、その出自は平城天皇の第一皇子・阿保親王の子で在原朝臣を賜った在原業平にまで遡る。後に姓を阿保に改め、大田原氏(大俵氏)を称するに及んで丹治[9]に改めたとされている。また、織田政時の子が大田原氏を継承し典清を名乗ったことから平氏ともされる[10]。 いづれにせよ、大田原氏の氏祖は大俵忠清 『大田原家譜』によれば「大俵康清
概要
出自
歴史